02/27/08

般若心経5(空と虚無主義との違い2)他力本願

19世紀に提唱されたニヒリズムは、小乗仏教の修行僧同様に高度な哲学者・・ニーチェなどが唱えているものですから、象牙の塔の中に籠もって思索する人あるいは超人と言われる強靭な精神の持ち主にだけ妥当する理論であって、元々庶民向けではありません。

ニーチェによれば、これを超克する強い人(強いニヒリズム)が要請されるのですが、そんな人は滅多にいないのです。

ニーチェ自身、最後は狂気の内に死亡しているので、彼自身ですら、強靭な意志力に恵まれていたかどうかは分かりません。(強くあるべきだと言うだけでしょうか?)

般若心経は、大乗仏教の説法ですから、大衆・・誰でも出来る・・と言うより、人並み以下の弱い人でも救済される教えが中心になります。

難しく厳しい修行・あるいは研究を前提としないでも、あるいはニーチェの言うような強靭な精神力が無くとも、解脱できる方法、・・・真言や呪文を唱えることが重要と言う結論に落ち着くのでしょう。

02/14/08「観音菩薩像の源流5」のコラムでも書きましたが、大乗・・・在家信者中心になってくると、難しい教理の研究や厳しい修行を前提とする論よりは、真言・念仏等を唱えると救済されると言う説法の方が大衆受けするのは当然です。

キリスト教もそうですが、小ムヅカシイ律法にこだわるパリサイ人批判から始めて、大衆受けしたものでした。

この真言を唱えることから始まって、(最初は、それでもある程度難しい理屈付けも必要でしたが・・そのうち念仏だけでよいとする)わが国、中世の念仏系の各宗派の発達にいたるのは、ひとつの流れとして理解できるでしょう。

単に真言や観音様を唱えるだけでは不安な向きも出てきますから、そのうち仏様の世界から積極的に救いの手を差し伸べてくれる、他力・・初めっから衆生を救うために発願してくれたありがたい仏様さまがいると言う創作・・・・阿弥陀信仰が始まるのです。

ちなみに、世上他力本願とは、「無責任なあなた様任せ」と言うイメージで理解されていますが、これは誤解であって、阿弥陀様が、衆生救済のために誓願してくれたと言う意味です。

観音菩薩もその他の菩薩も自分自身の解脱のために修行しているのですが、阿弥陀様は、他人のために発願してくれているありがたい仏様だという意味です。

現在流に言えば、積極的に救済に来てくれるアンパンマンの元祖ともいうべきでしょうか。

そしてもう一つの流れ・・禅宗の禅定・只管打座も、強い精神力を前提としながらも、悟りにいたる方法論としての根っこは同じでしょう。

紀元前後に宗教の大衆化・・・庶民の救済がメソポタミア周辺世界で必要になったのは、古代から政治文化の中心であり続けたメソポタミア地域の長期安定が崩れた・・・不変と思われていた秩序が崩れたことによるのでしょう。

ユダヤの場合には、ご存知のようにセレコウス朝によるヘレニズム化導入によるユダヤ迫害に対して終末論が絶頂に達したように、既存秩序の崩壊が大きな契機になるのです。

 



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