02/27/08

般若心経4(空と虚無主義との違い1)

般若心経の話題は、02/10/08「ゼロの発見とインド仏教(空の思想)1」以来、初日参入の昔の計算法・・・ゼロを知らなかったことから、空=ゼロの思想の起源を訊ねて始まったものですが、心経をさらっと読むと何もかもすべては無であり空であることになって、いわゆる虚無主義・・ニヒリズムになりそうです。

ここで、虚無主義とどう違うかの分析が必要でしょう。

ニヒリズムとは、ラテン語のNihil(無)から出た言葉らしいですから、空の思想と根は似ているのです。

わが国では、「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響き有り・・」などと、無常観が好まれますが、般若心経は、もともと無常を訴えたものではなく、無・・物事にこだわることを戒めただけでしょう。

そもそも、熱帯に属するインド・ネパール方面で発生した仏教では、季節の微妙な移ろいを前提とするわが国の無常観はなじみのないものだったはずです。

般若心経は、釈迦の教えを研究し尽くしても、悟りに至らない最高知恵者舎利子に対する修行方法に対する答え・・「さとし」と言う形式です。

お釈迦様が説かれたとされる仏教の中心的な教説、「五蘊」、「十二処」、「十二縁起」「四諦」これを「法・・だるま」と言うらしいですが、これを小乗系では細かく実証的に研究して一見存在するように見えても、真に存在する真理とそうでないものを見極めます。

真に存在する真理=法を悟れば、煩悩が無くなり救済されると説くものらしいですが、これに対して、観音菩薩はその 五蘊 や12処等自体・・法を含めてすべて実体がないのだから、こうした分析・研究は意味がないとさとす展開です。

この私(観音)といっても、私そのものは存在せずして、お釈迦様の言うとおり五蘊から成り立っていて、その五蘊もそれぞれに実体がないのですから、これらを実体であるとして小乗的研究をしても仕方がないし、かと言って、私・観音そのものは眼前に厳然として存在していて、幻でもないというのです。

これでは、何がなんだか分からない(私の理解能力では・・)と言うところですが、如何に細かく研究しても特定の実体がないと言う悟り・・先ず無を悟ってから、すべてが始まると言う教えと言うべきでしょうか?

結局は、すべての執着・・煩悩から開放されるために・・空を洞察する智慧を得るためには真言を唱えて、精神を集中することで世の中の真実が見えてくると言う教えであって、弱い虚無主義の教えではありません。

一般に理解されている虚無主義・ニヒリズムとは、煎じ詰めれば結局不可知論ですから、弱者にとっては自暴自棄・・刹那主義に陥るしかありません。

これでは、現世の諸問題解決には不向きです。

 

 

 



関連ページリンク

Powered by msearch
稲垣法律事務所:コラム:検索

検索ベースはこちらから

 


コラムTOP

リンクを当コラムにはられる方はお読み下さい

©2002, 2003, 2004, 2005, 2006, 2007, 2008 稲垣法律事務所 ©弁護士 稲垣総一郎
Design / Maintained by Pear Computing LLC



ブログ
株式投資