02/26/08
般若心経3(翻訳の限界)
五蘊とは、人間は精神・肉体総合して仮に五つで成り立っていると言うお釈迦様の教えによる概念ですが、5つとは・・次にでてくる色・受・想・行・識のことです。
釈迦も物事の基本として5を基準にしていたのかどうか不明ですが、当時中国で普遍的であった五行説の影響下で翻訳したから、漢人に分かりやすいようにタマタマ五つにした可能性もあります。
五行説については、01/19/08「古代文化交流の途絶6と陰陽五行説5」前後のシリーズで連載してきました。
原語サンスクリット語でも五つだったか否かまでは、私には分かりません。
照らし見ればお釈迦様の説いた五蘊でさえ、(小乗ではこれを実体として研究しているが)実体が無く、みな空であるという結論から始まります。
ただ、以下に続く例示からすれば、五に限る必然性がなさそうです。
要は、すべての物事は行い済まし(行深)てみれば「空」であることが分かるし、このように悟れば、無眼・耳・鼻・舌・身・意、無色・声・香・味・触・法などいろんな例示が出てきて、これらすべて無であると言います。
不生不滅、不垢不浄、不増不減。生も死も垢も浄の区別も、増減もないし、見えるものも見えないものも、無眼界、乃至、無意識界。明暗も無無明、亦無無明尽、乃至、老若の区別も、無老死、亦無老死尽。無苦・集・滅・道。無智亦無得・・・すべてないというのですから、要は考えられるすべてを書き出したものでしょう。
お経は、西域を通じて中国から伝わったので、当時の中国の受け入れ能力・・文化水準・思想状況のレベルで、インドの仏教思想が受容されたものと言うべきでしょう。こうした考え方については、わが国が中国の易経や五行説陰陽説をわが国のレベルに合わせて、より呪術的要素の強い陰陽道として受け入れざるを得なかった経過として01/18/07「古代文化交流の途絶4]前後で説明しました。
仏教のお経は、中国から伝わったので、漢文で出来ているので、漢文を通じて読んでいる限り中国文化のフィルターを通したものとなるしかないのです。
中学生のころには、西洋史に出てくる地名や人物名など・・シーザーなどすべて英語読みしか知らなかったものです。
専門家は、勿論梵語やバーリ語など多様な言語を研究しているのでしょう。
話は変わりますが、外国語を日本流に読み下せばそれで直ぐに意味が分かるのですから、わが国の先人の翻訳能力は大したものです。
先人は、自分ひとり翻訳出来る仕組みを考えたのではなく、誰でも一定のルールを覚えれば、漢語がそのまま翻訳できる方法を考え出してくれたのです。
現在のやり方は、英語のできる人自分ひとりだけ意味が分かるというだけで、誰でもこのように読みかえれば意味が分かると言う仕組みが開発されていません。
英語やフランス語も、原文のままをこのように読み下す方法が開発されれば、英語自体を話せなくとも便利です。
ただ、これからは、文書交換だけでなく会話・・即時性の時代ですから、レ点などで読むだけでは実用性がないでしょう。
今風の変換方法・・コンピューターシステムの現在的発達が求められているのです。
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