02/20/08
封禅と禅譲3
ところで、禅譲の実質は何でしょうか?
現在の安倍政権から福田政権への移転は禅譲となるのでしょうが、すべからく、前後の力関係から仕方なくそうなるだけであって、これを禅譲というかどうかは言葉の遊びみたいなものです。
堯もその子丹朱と共に、山西省奥地の平陽(17日に、平陽が渭水の上流にあると書きましたが、その場所らしいです・・)に舜に幽閉・・・と言うか流滴されて死亡したと言う説があり、舜も、最後は 禹 に追放されて瘴癘の地で死亡したのだと言う解釈があります。
「舜南に巡狩し、蒼梧之野において崩御す」と言うのですが、当時の漢民族の版図外の未開の地、特に北方民族にとっては南方は「瘴癘の地」として恐れられていたのに、死ぬ間際の老人がそんなところへ巡行するなど考えられないので、多分追放されていて、そこで死んだのだろうと言うことなのです。
唐代末でも、この辺は瘴癘の地として恐れられていた点については、12/15/05「海路の発達と中央アジア交易の縮小3(乾燥地帯から湿潤地帯への移動)]のコラムで韓愈の詩で紹介しました。
ですから、後世儒教道徳の普及で、禅譲が理想である・・それ以外の正当性が怪しまれることから、形式だけ禅譲を演出する、帝位簒奪の儀式・・偽善になっていったのは当然でしょう。
こうした偽善に組することが出来ず、遁世し、清談をしていたのが魏末から西晋に掛けて有名な竹林の七賢です。
竹林の七賢については、道教に凝っていたことが喧伝されますが、逆に、儒教的秀才・・わが国では清盛の嫡子小松の重盛同様です・・・だったために、その虚偽・欺瞞性に苦しみ道教的生活に逃げたと解釈すべきだとこれまで何回か書きました。
エリート・秀才と言うのは、方便として利用している道徳的仮面をそのまま信じ込んでしまう小児的病なところがあるものです。
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