02/19/06
話しが大分逸れましたが、02/13/06・・2「利息3(出挙2)高利金貸しと税金の起源2」以来の
出挙(すいこ)に話を戻しますと、上記コラムで書いたように
「貸さなくなったのに利息だけ寄越せ」
と言う変な制度・・税金に転化していったのです。
租税と言うものは、今では個々人では出来ない道路や橋をつくったり、学校その他共同の出費のための制度だと思い込んでいる人が多いと思いますが、それは、近代国家になってから、租税率を上げるために名目が必要になって出来上がった観念に過ぎません。
近代国家以前にも、時代の進展にともない、河川の回収や道路の整備など徐々に行うようになってきましたが、租税の使い道としては飽くまでそれはおまけみたいなものでした。
江戸時代には、商人からの徴税システムがうまく出来ていなかったために、ときどき冥加金や矢銭を取り立て、或いは、身代限りにしていたのですが、こうしたことは、商人に対するだけでは有りませんでした。
ときどき特定の大名あるい数大名に命じて、彼らの費用で、名古屋や大阪城の新築、神田川の改修・・駿河台の石垣積み、河川改修などやらせていたのです。
たまにやらされるから命じられた方は、災難・被害者のように思い、島津家の長柄川改修工事のように歴史に残ると言う訳です。
それまでの恒常的な税は、どちらかと言うと支配階級の生活費を賄うためにあって、特定プロジェクト・・・・村などの公的行事に際しては、村人を動員して道路普請など無償で行わせていたのが普通でした。
勿論村の御祭りも政府がお金を出すのではなく、その村人の寄進によるものでした。
現在でも千葉の花火大会や、年末の街路に点滅するイルミネーションなども、地元企業・商店などによる寄付金で賄っているのです。
私の子供のころでも、田舎の小さな道普請などには部落総出で、石垣の積みなおしなどやっていたものでした。
そのうち、その部材費については、公的供給となり、さらには、道路普請で言えば、土木工事が専門化してきて業者に請け負わせるようになると、(未経験の役人が、農民を集めても、大きな橋をかけたり、大規模な埋め立て工事などは出来なくなって来たのです。)公から全額出されるようになって来たのが時代の順序でしょう。
以前千葉の歴史で紹介しましたが、印旛沼の干拓事業などは、何回も失敗していますが、大手業者に一括して発注していたものでした。
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