02/09/06

農業社会政治権力7(武家台頭2)

この寄進に際し、源氏が特に摂関家の走狗として活躍し、勢力を広げていましたので、各地の需要の掘り起こしには、積極的に関与していきますので、次第に源氏が全国的に勢力を扶植していくのです。
中央権力の弱体化にともない、荘園内の秩序維持や刑罰権が強化されるに従い、(最初は、結構な貴族でも藤原氏の厩につながれる事例から始りますが・・・・・)或いは荘園同士の争いの解決のための物理的装置である武士が台頭してきます。
09/18/04「源平争乱の意義4(平家の武士としての役割1・・・貴種であるだけ?)」前後のコラムでも書きましたが、源氏はこの需要対応に成功し、全国的に展開しすぎて、源氏同士でさえ自分の支持基盤の利害対立の結果、殺しあう時代が到来していたのです。
(木曾の義仲の父義賢は、甥の源義平に討たれます)
平家は最後まで一族の結束が固かったといわれるのは、一族を都の中堅貴族と縁組させるばかりで、各地の土豪の婿などに派遣しておらず、その利害対立が無かった・・未発達だったからでしか有りません。
こうした関係は、09/19/04「源平争乱の意義4(貴種と立憲君主政治3)」前後のコラムで詳細に書きました。
院政初期或いは八幡太郎以来の源氏の長期低落・・中央での不遇は、河内源氏が、あまりにも勢力を拡大し過ぎて「出る杭」として、中央の目にあまって叩かれ続けていたともいえるのです。
中央だけ見ていると、源為義は失策だらけで、惨めなようですが、裏返せば、地方でしこしこと稼ぎすぎたので、これに脅威を感じた後白河上皇によって、叩かれ続けたという所かもしれません。
こうして中央では、保元の乱以前から衰微しつつあった源氏ですが、そのとき培った源氏の地方での地盤が、頼朝の蜂起の下地となったのです。
こうして出てくる杭を叩いても叩いても、結局は現地で必要とされていた源氏が出て来て最後の勝者になるのです。
その完成型が、武士の政権の成立(鎌倉)〜確立(江戸時代)によって締め括られるのです。



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