02/08/06

農業社会政治権力(詩歌管弦の道)3

01/23/06「農業社会の政治権力(詩歌管弦の道)2」のコラムで帝王の仕事がなくなった場合・・・・天皇の定年制について書いているうちに、またまた、皇室典範改正論に入ってしまいました。
上記コラムの続き・・・・農業社会と権力構造のテーマに戻りましょう。
生活手段の主力が農業だけになってしまうと、権力者の仕事が次第になくなって行くことについては、09/26/05「農業社会と政治1(詩歌管弦の道)竹林の七賢」以下のコラムあるいは、09/25/5[商から農への転換3(権力不要社会へ)」のコラムなどで、これまで書いて来ました。
かなり期間があいてしまいましたので、そこら辺のコラムを読み直していただきたいのですが、・・・・・日本の場合、どうなったかの続きです。
農業社会化につれて、権力者の仕事が縮小していけば、天皇権力の形骸化が必然的に進んで行きます。
そこで、何かしなければということで、最初は、仏教の奨励に名を借りて全国に国分寺や尼寺を設置するなど、土木工事に邁進しましたが、現在の箱もの行政と同じで、いったん作るとその維持管理費用がかかるのです。
当時はまだ草葺の竪穴式住居が普通の時代ですから、全国に壮大な瓦葺の伽藍を作らせれば、(中央の権威・・箔付けにはもってこいだったでしょう。
しかし、これはいきなりの付け焼刃ですから、例えば人材一つとっても全国一律に優秀な僧侶(大学で言えば教官)を送り込めるほど、余った僧侶が都にいたわけでななかったので、粗製濫造を免れなかったのです。
その他の継続的な維持管理費用を賄えるわけがないなど、いろいろ無理があったので、打ち上げ花火のように消えてしまい、国分寺は後世につながる名刹としては、ひとつも残っていないと言う訳です。
頼朝が義経の追捕のためと称して、全国に守護を置いたのと同様に、国分寺の維持費用と称して全国的に徴税組織を整える意味があったのかもしれません。
聖武天皇は、平城京遷都や土木事業(一種の列島改造論時代です)で何とか仕事をしますし、これまで律令制のコラムで書いて来たように、桓武天皇のころまではまだ蝦夷征伐などの軍事行動や、平安京への遷都、この間、律令制の維持修正作業などに忙しいのですが、こうした懸案事項は醍醐天皇のころに一段落してしまいます。
(解決したのではなく、もはや、これ以上やれなくなっただけです)
さらに、これ以降は藤原家の支配が強まり天皇家の実権はなくなっていきますので、いよいよスルコトがなくなります。
こうなると、天皇家は、詩歌管弦の道に進むより外なかったでしょう。
詩歌管弦だけに精力を注いでいたならば、歴史に残る失政の余地が少なかった(権謀術数からの無関係ですから、その分危険の淵に立つこともなかった)ので、却って天皇家の存続に利したのです。
このころから、今の象徴天皇制を実践していたのですから、象徴天皇の歴史は古いですよ〜。
後白河上皇や後醍醐天皇のように具体的権力を手中にしますと、国家大乱のもとになるとも言われます。



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