02/07/06
男系長子相続の妥当範囲3(江戸時代2)織田・豊臣・徳川の女系
秀吉も、自分政権の正当化のために信長の血筋である「お茶々・・淀殿」を大事にしてきましたが、淀殿の性的魅力に溺れていたと言うのではなく、政治色があったことが分かります。
(ご存知のように、彼は三法師丸の後見の地位だったのに、自分で天下人になってしまったのですから、正当性の裏づけが弱かったのです。)
こうみると、茶々は、信長の系統であったからこそ、他所の男との間の子でも、産むことが勧められ、産まれた秀頼は天下人の跡取として周囲から認められたのかと、思いたいところです。
しかし、信長の自身の娘たちまで、秀吉の側室になっていたのですが、彼女達は茶々よりも信長の直系ですから、系列上上位ですが、彼女達はどこかで子を作らなかったのですから、この辺は複雑です。
秀吉の正妻禰禰とその他の織田系の女性とは、「正妻とその他」と言う序列で秩序がきっちり守られていたようですが、茶々・・淀殿だけは、なぜか、この規律に服さず、出産前から正妻禰禰と悶着を起こしていたようです。
茶々の方は、どこか開き直った所があったのでしょうか。
徳川家も、豊臣家に仕えていた以上は、それを後で滅ぼし、自分に政権をもってくるための正当化のために、信長の血筋が必要だったので、秀忠を跡取として取り立てたのかも知れません。
織田、豊臣、徳川は、当時最高の血統であった織田の女系でつながっているのです。
古代に天皇家が女系であったことの余韻でしょうか・・自己の正当化のためには、高貴な女系の利用がこのころにも行われていたのです。
さらに、綱吉のときにも、娘の鶴姫の夫に跡を継がせようとしたことがありました。
そのために家宣が邪魔で仕方なかったことから、家宣はいつ暗殺されるか心配で極度に警戒していたのが有名です。
さらに言えば、家宣は、綱吉の兄綱豊の長男でしたから、綱吉よりも継承順位が上でしたが、まだ成人していないことを理由に、兄の子を差し置いて綱吉が家督を継いだものです。
このとき、大老酒井による鎌倉北條家に倣った宮様受け入れ論は、「将軍の実務能力不要論」を前提にするものでしたが、実務能力必要論の堀田の意見がとおったいきさつを、02/13/04「水戸光圀は副将軍?2(大老・側用人政治時代)」のコラムで紹介しました。
この論争の結果、将軍には実務能力が必要と言う結果になったので、これが、後の将軍吉宗誕生につながるのです。
たまたまこのときは、次々と将軍が死亡し、直系がいなくなったので、実務能力の有無を規準に紀州家から吉宗の抜擢が出来たのですが、その後将軍家も直系相続が順調に進んでいる間は無能な将軍ばかりとなってしまいます。
その後、将軍の名前でなく、田沼(側用人)、松平、水野など、老中などの名前で、政治改革が行われるようになり、最後は幕末の井伊大老の出番となるのです。
藤原氏が摂関家を独占するようになるまでのしたたかさには驚くばかりですが、藤原氏も道長流で独占するようになって、しかも男系でやって来たために、道長以来ホンの数代で能力の継承がジリ貧になってしまったことが、保元、平治の乱につながる摂関家の衰退を導いたのでしょう。
また、鎌倉の北條氏も島嶼は一軸で政権を持ちまわっていたのですが、そのうち得宗家が権力を独占するようになると、瞬く間に人材が枯渇して、楠正成や足利の活躍の舞台ができるのです。
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