02/06/06

男系長子相続妥当範囲2(江戸時代1)

このように見ていけば、男系長子相続と言う厳格な世襲制が機能するのは、既に実質的に経営・実務に携わっていない者がトップに立つ組織でこそ、成り立つことが分かります。
名誉職みたいなトップを、無駄に養える組織が世の中にザラにあるものでは有りませんから、男系長子相続が出来たのは、江戸時代でも、武家や天皇家、公卿社会に限られていたのです。
こような組織では、厳格な相続法制で資格喪失による御家断絶がおきても、実務を元々やっていないのですから、組織としては殆ど困らないのです。(社会の無駄がなくなるだけです)
赤穂浪士・浅野家の断絶の場合のコラムで紹介しましたが、塩の製造に携わっていた実務の人は、浅野家の領地を引き継いだ方でも重宝したでしょうから、路頭に迷ったのは実務に関係のない家臣団だけでした。
武家の場合も元は実務家として台頭したのですが、江戸時代には能力があろうがなかろうが、兎も角君主の要求する長子相続をしている限り、当主が無能でも家録が保障されたので、男系長子相続が定着できたのです。
天皇家や、公卿も実務的仕事をしていなかった点は同じです。
どんな阿呆でも、心身の故障者?でも男である限り相続できたのですから、「男は男」として、大事にされた所以です。)
相続しても、自分で経営しなければならないならば、無能ならばすぐにつぶれますが、「家録」と言う実務能力に関係ない一種の年金相続だったので、3歳の子供でも愚鈍でも、兎も角養子にしておけば、相続できたので、世襲制が続いた理由でした。男子長系単独相続制と養子縁組制はセットになっていたのです。
江戸時代の長子相続制と言っても結果的に見れば、社会実質に関係ない組織だけで機能していたと言うより強制されていた制度に過ぎなかったのですから、江戸時代の鬼っ子みたいな制度でしかなかったのです。
社会全体の健全な分野では、男系長子単独相続制ではなかったのですから、江戸時代には男系長子単独相続制が一般的であったと言うのは、機能的に見れば誤りでしょう。
支配層の制度だから重視するのかと言うと、将軍家自体が必ずしも長子相続でなく、2代目に秀忠自身長男どころかずっと下のほうでした。
彼は、家康の子供の中では下の方でしたから、軍功も大したことがなく、(それどころか真田の小さな城一つ落とせずにてこずって、恥を掻いた方です)彼が将軍位を継げたのは、信長の妹のお市の方の娘「お江」(淀殿の妹です)を妻にしていたと言う血筋の良さだけでしょう。
秀忠の相続については、02/14/04「徳川御三家は明治政府のでっち上げ?」前後のコラムで、一度詳しく書いたことがありますので、そのコラムを参照してください



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