02/03/06
前回コラムで書いたように、古代には、男は別として、
「皇后だけは、大和朝廷系の女性でなければならない」
と言う長年の慣習法が生まれていたのです。
今から考えると、古代には、皇后を天皇家(大和朝廷)からしか出せなかったと言うと、ものすごい近親結婚制度で非合理な制度のように思う方が多いでしょうが、実は、男を外から調達する仕組みの前提で考えれば、なんらおかしな制度では有りません。
非合理とか近代的とか言うと近代の専売特許のように思う方が多いでしょうが、近親婚の禁止は、科学不明の超古代から、あるいは動物でも近親婚リスク除外のタブ−があるくらいですから、大和朝廷だけがそのタブーを知らなかったわけでは有りません。
これを明治以降の男系血統主義で、虚構の説明をするから矛盾が生じていただけです。
ついでに推古天皇の実績を隠す為に、聖徳太子が摂政として活躍したのを大げさに書きますが、聖徳太子と言いますが、そのころは「太子)などの称号がなかったばかりか、このころには摂政制度などないのですから、その面からも破綻しているのです。
もっと言えば聖徳太子・厩戸の皇子自体実在したのかにすら、疑念があると言われているのです。
聖徳太子が遣隋使に持たせたとしたといわれる
「日いずるところの天子、日没するところの天使に書を致す・・・ツツがなしや」
で有名な国書提出時に、隋側から日本を訪問した役人の記録では、聖徳太子のような人物の存在が認められないと言う意見があるのです。
話を戻しますと光明子が皇后になって以降(藤原腹の)阿部の内親王(孝謙・称徳)以外には、女帝の即位がなくなるのです。
そして藤原家からつぎつぎと、皇后・中宮が送り込まれるのですから、
「天皇家は女系でつながってこそ万系一世である」
と規準で見れば、このときから天皇家は藤原氏に乗っ取られていたと言うことになるのです。
この藤原腹の天皇でなくなったときに、保元・平治の乱の騒乱の芽が出来たのです。
こうして男系が続くようになったので、(一瞬的に江戸時代にも女帝がありますが、例外になっていたのです)男系皇統が天皇家の伝統であるかのような錯覚が生じて来ただけです。
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