02/03/06

皇室典範改正論議7(女系天皇2と外戚)

藤原不比等と橘の三千代との間の娘光明子が臣下として初めて皇后になったのが歴史上有名ですので、殆どの方がご存知でしょうが、それまでは皇后は天皇家からと言う不文律があったのです、
光明子以前は、臣下からの後宮入りの場合は・・夫人(ぶにん)例えば藤原の夫人(ぶにん)としか呼ばれていなかったのです。
これが何故大事件として記憶されているかと言うと、一寸した本にも書いていますが、何のためにちょこっとどこでも取り上げているかの説明がないので、ここで少しばかり書いておきましょう。
以下に書くように、それまで天皇家・・大王家は女系でつながっていたのですから、皇后を自分の家から出すと言うことは天皇家の乗っ取り以外の何ものでもなかったからです。
不比等(等しく並ぶものなし)と言う恐れ多い名称を唱えた彼は、(持統天皇の最愛の息子は日並の皇子と言われていたのです。)天下を乗っ取る野望を宣言していたのです。
男性天皇になってからでも、女性の力の大きさについては、藤原道長の出世物語で有名ですから、皆さんご存知と思いますが、簡単に紹介しますと、天皇家の内部を実質支配していたのは、道長の姉である詮子でした。
道長と伊周の争いと言っても、実は詮子と姪である定子(兄、道隆の子ですが、他所の女の産んだ子は他人みたいなものです)の争いでもあったのです。
こうして詮子は、兄の子よりも自分の直接の弟道長の方が可愛いと言う理屈で、彼女の後押しで急速に台頭できたものです。
道長と倫子の長女彰子が入内して、次の天皇家の実質支配者になって藤原氏の栄華を築くのです。
このように男子天皇になったと言っても、実質は女性支配であったからこそ、外戚が大きな顔を出来たのです。
      「天皇家からしか皇后になれない」
と言う不文律が、何時から確立したかについては、私の想像力を逞しくした結果では、継体天皇が、本来の大和朝廷の外から来た大王でしたから、正当性を維持するために、従来の大和朝廷の主のような女性と結婚したことに始ると思われます。
以後大和朝廷は、女系になっていたのです。
以降男はどうでもいいとしても・・・例えば天武天皇(大海人の皇子)などは、渡来人説すらあるくらいですが、妻の持統天皇(鵜野讃良皇女・・・うののさららのひめみこ)が天智天皇の娘と言うところで、正当性が認めれていたのでしょう。
それでも足りなかったのか、天武天皇には合計4人もの皇女が嫁いでいるのです。
その結果持統天皇は、競合する自分以外の姉妹などの生んだ皇子の粛清に奔走する血なまぐさい政治に邁進するのです。



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