02/03/06
縄文人も女性主体の生活だったでしょうが、後漢から3国時代にかけて中国の交易社会に組み込まれて行く過程で、列島内でも商圏を巡って、あるいはその市場の仕切り役を巡って、武力闘争の時代が始まったのでしょう。
その結果、日本でも古代の商業国家の時代には、男性優位社会化していたものの、男の王にしてみるといよいよ争いが増える一方で争いが絶えません。
やっぱり駄目だったと言うことで、過去の遺風の復活として、女王卑弥呼を戴いてみるとようやく国の乱れが治まったのです。
有名な魏志倭人伝の一節です。
此の国、もとは男子の王、倭国乱れて互いに争いて年を歴(経)る、一女子を立てて王と為す。
名ずけて曰く、卑弥呼、鬼道に事(つかえ)、大衆をよく惑わす(心を掴む)、年長けても夫無し、弟有りて之を輔(たすく)。
交易世界の仲間入りしてからは、日本も重商主義=武力重視時代がくるのですが、その時代が短かかったので、あまり男尊女卑と言うほど定着しないうちに、白村江の敗戦以降鎖国して農業社会化に戻ってしまったのです。
日本史上、最も武断政治で激しく戦っていたころの方が、実は、女帝が多いのです。
蘇我、物部氏のヘゲモニー争いの戦乱時代の推古帝、大化の改新前後の革命的変革時代の孝徳天皇=斎明天皇、さらには壬申の乱の余韻さめやらない持統天皇などなどです。
そのうえ日本の農業は、上記のように中国や西洋と違い、女性主体であったことと相俟って女性優位と言うか、母系制社会が色濃く残って来たのが、平安時代までの日本でしょう。
天皇家の天皇就任に際して男系重視慣習が確立するのは、実は藤原氏の勢力確立に端を発しているのです。
ご承知のように藤原氏の外戚としての地位が固まると、女帝では具合が悪いのは当然です。
聖武天皇までは、持統天皇依頼、文武など男子もありましたが、原則として元明、元正など女帝が続いていたのです。
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