02/03/05
立証責任の転換6と黙秘権2(アリバイ)
日本の裁判所は、お奉行所の伝統を引き継いでいるせいか、「処罰すべき者を逃してはいけない」と言う検察寄りの姿勢で基準不明の曖昧な運用をしているのは危険です。
(明治以降約100年も経つのに裁判官と検察官の職務区別がまだ身についていないのではないでしょうか?)
立証責任を転換すべき部分を転換しないままで、処罰の必要性にあわせて検察が本来的意味では立証できていないのに立証出来たものとして認定する長い習慣が、本来検察が立証すべき部分にまで被疑者がわにアリバイを要求するようにエスカレートしてしまったのでしょう。
自由心証主義と言うのは採証法則であって、立証の程度は「合理的疑いを越える」ことを要求されているのは変わりませんから、本来は裁判所の匙加減でどうにでもなるものではありません。
しかし、こんな理屈は屁理屈の最たるものであって、判決理由に「疑いがない」とか「被告人の弁解は採用できない」とか「信用できない」と書けばいいだけのことであって、「合理的疑いを越える」かどうかは裁判所の「自由な?判断」に委ねられているのです。
勿論裁判所の判断も自由気ままではありえず、事実認定はおかしい事を理由に控訴できますが、控訴して見ても、高裁でも結局は「信用できる」「信用で出来ない」という自由な判断で処理されるのです。
こうして、長年にわたって処罰の必要性を基準に検察有利に認定してきたので、ひとたび逮捕されると被告人が自分でアリバイや無実を事実上立証しなければ、助からない印象を国民が持つようになっているのです。
立証責任を転換すべき部分は転換し、転換してはいけない分野は検察の立証責任として残して明確化し、その代わり残った部分は、検察に厳密な立証を求める運用をすべきでしょう。
自由心証主義については、10/12/02「裁判の仕組み 10(自由心証主義)」のコラムで紹介しました。
今回の司法修習生の事件では、不良だけが見込み捜査に遭うのではなく、エリートであるべき(一般社会ではどうか知りませんが、少なくとも裁判所の中ではエリートの卵です)司法修習生でさえ見込み逮捕されたら、アリバイがないと助からないのです。
このコラム読者はエリートが多いと思いますが、刑事手続きはみんなの問題なのです。
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