02/29/04
足高の制3と与力
官僚組織創設者としての吉宗を、官僚やマスコミが「よいしょしている」と言う見方を02/01/04「吉宗以降の幕府3(官僚組織の創設)」のコラムで紹介しましたが、この関連だと思いますが、吉宗の改革を有り難がって持ち上げる書物ばかりです。
吉宗の始めた「足し高の制」は、前回まで紹介した私の基本的立場から言えば、現代社会の無責任政治の先祖みたいなものと言えるでしょう。。
人材登用を阻んでいるのは、家禄制の弊害にあるのですから、この制度に手をつけてこそ後世に残る改革と言えるのです。
例えば家禄を半減し、(1割づつ減らすのでもいいですが)その浮いた分を足高に廻すこととし、こうしたことを10年に1回づつ繰り返していって次第に家禄が殆ど意味をなさないような、漸進的?な政策こそ改革という名に値します。
そして最終的には、家禄で職務を賄う部分を少なくして行き、(足し高=役職手当を少なくして)その代わり、与力的配下を増やしていけばよかったのです。
公務は自分の家来で賄うのではなく、家禄を減じる代わりに公務に必要な人員は、公で手当てする制度へ移行すべきだと言う考えです。
与力制度はそのはしりだったのですから、これを拡充していけばよかったのです。
別の角度から家禄制度を見ますと、吉宗のころに単に身分制度の硬直による能力の乖離から、人材登用が行き詰まっただけではありません。
戦国時代と違って、天下統一後は一定の職務をこなすのに、自分の1族郎党を引き連れて奉公する時代ではなくなっていた側面も無視できません。
老中その他の役職を遂行するのには、評議で意見を述べる能力さえあればいい時代がきていたのです。
新井白石が好例ですが、彼は旗本ですらない、久留里藩2万2千石(現在の千葉県君津市の山奥です。)の小さな大名の藩士として生まれ、藩主の代かわりのときに父子とも辞職して長く浪人し、その後堀田家に仕官しました。
ところが、堀田家は大老政治のやり過ぎで城中で刺殺されてからは、その子孫の家禄は次々と削減されました。
この政治抗争については、02/13/04「水戸光圀は副将軍?2(大老・側用人政治時代)』のコラムで少し触れました。
堀田家の家禄が減る一方のとき、(リストラ旋風?)新井白石は就職後僅か2年で失業して(「致仕」したと漢字を使って大袈裟に言いますが、要するに失業したのです。)浪人していた人物ですが、学識を買われて、甲府宰相綱豊の顧問となり、綱豊が6代将軍家宣になると第7代家継時代をあわせて、2代に亘って天下の政治を行ったのです。
これが正徳の治と言われる時代です。
短い期間でしたが、結構改革していますよ。
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