02/25/04
与力 (寄り騎)7(軍事組織の思考回路)
話を元に戻しますと、本能寺の変の後、秀吉が山崎の合戦で光秀と戦うときに自分の手勢だけでなく大軍を指揮できたのは、毛利攻めの総大将として寄り騎大名を一杯抱えていたからです。
また光秀も謀反を起こす気になったのは、中国攻め参加のために、自分の手勢だけでなく、多くの寄り騎大名を傘下に把握していたからでもあるでしょう。
彼は自分の手勢だけでは、少なすぎて天下を取ろうと言う野心を起こせるわけはないのです。
ついでに信長の新機軸を説明しますと、信長は、足利政権が、直参が(直轄領)が少なくて、諸大名を牽制出来なかったことから、次第に空洞化した轍を踏まないように工夫していました。
家来に大きな領地を与えず、家来に大きな仕事を任せるにしても、家来自体の家禄を大きくせず、大軍勢が必要なときには、寄り騎という応援制度で誤魔化していたのです。
与力が継続的になると、主従類似関係になりますので、この定着を防ぐ為に次々と組下大名を組替えて、家来の権勢が大きくなりすぎないように工夫していたのです。
しかし、組下になっている間は、命令服従の関係が成立しますので、本能寺の変のように、いきなりの軍事行動ですと、そのときの寄り騎、組下大名は、自分だけ離脱行動は取れません。
たちまち血祭りに挙げられるでしょう。
これを避ける為に真田幸村父子は、上杉討伐軍主力の家康軍からかなり遅れて行軍していて、光成挙兵の報を聞いて、すぐ信州に引き返しています。
こうしたこともあっていきなり挙兵されると、他の動向が分らないうちは、さしあたり総大将の言うとおり行動してしまうのは、軍事組織としては仕方ないことです。
謀反を企てると言っても、家来に予め言っておく必要は有りません。
自分の直属の家臣に対しては、光秀に限らずすべての武将はただ「行け!」とか「かかれ!」とか「敵は本能寺!」と叫べば兵は単に命令どおり突進して行くだけです。
これは当時の古風な意識というよりも、現在でも言えることなのです。
昭和のクー・デ・ター2・2、6事件や5・15事件を見ても、兵は、天皇の兵或いは国家の兵であって将校の私兵でないのに、指揮者の命令には、さしあたり盲目的に従って、首相邸に乗り込んで行くのです。
近代国家においては、徴兵された兵・すなわち私兵ではないのに、直属将校の命によって、その上位者である首相を殺害する為に行動するのは、理屈でいえば、矛盾です。
(ただし、檄文によれば「君側の奸を屠れ」と言うのですから、全く矛盾しているわけではありませんが・・・)
このように大義がどうであれ、自分の本当の雇い主が誰であれ、直属上司の言うとおり行動するのが、近代国家でも軍事組織の宿命です。
荒木村重の謀反事件では、光秀のように瞬間的行動ではなく、自分の居城(と言っても尼崎城とその他)に籠って出仕しなくなっただけでした。
光秀のように瞬発的行動でなかったために、寄り騎大名にとっては去就について考える時間に恵まれました。
村重の謀反は、決起の理由だけでなく緩慢な行動も謎とされていますが、多分時間を稼げば毛利が応援してくれると思ったのでしょう。
ところが、毛利は天下を窺うほどの野心がなく、単に信長勢を分断すれば、時間を稼げる程度にしか、村重の謀反を利用する気がなかったのです。
関が原でもそうでした。
この機会に家康を叩いて、自分が最高実力者になろうと言う野心がないままに、西軍の総大将に祭り上げられただけです。
荒木村重は、毛利の器を見誤ったのでしょう。
こうして時間がずるずる過ぎていくうちに、かえって寄り騎大名は本来の主君である信長側になっていき、最後は孤立して何のための篭城か意味不明のまま総崩れになってしまったのです。
高槻城のキリシタン大名高山右近が、去就に迷った末、城を出奔して結果的に信長に就いたのもその1例です。
彼は荒木村重の寄り騎大名になっていたのに、信長に就くのは一種の謀反(義理を欠く程度も謀反と表現していた可能性があります。)になると言う道徳観と、より大きな信長に対する忠義としては、荒木村重にそのまま付き従うのは、これもまた大きな謀反(大義に反する)になると言うジレンマからだった筈です。
歴史書では、父や娘を村重に人質に取られていて悩んだという設定ですが、その前提としての村重に対する寄り騎関係があったと思います。(うろ覚えですのであしからず)
このように、時間の経過があると、軍事組織と言っても大義と義理の板ばさみに悩む兵が増えてきますので、反乱軍には不利となるのは光秀でも同じです。
「敵は本能寺」と言う出撃命令には、誰一人脱落は出来ません。
しかし本能寺後の光秀の檄に対しては、娘婿であり、親友でもあった細川に始まって、殆ど誰も応じなかったのはご承知のとおりです。
話を寄り騎関係に戻しますと、前田利家は柴田勝家の寄り騎大名として北陸路にあったので、秀吉と勝家のしずが嶽の合戦では、勝家側の軍勢となって布陣しています。
勝家敗戦後、秀吉は利家に対し、柴田勝家の寄り騎大名であった以上、自分に敵対したのは仕方ないことだったと言って、(利家の場合は、その所領も勝家の勢力圏にあったので、どうにもならなかったでしょう。)全くその罪を問わず、かえって大老にするなど優遇しています。(本当は内通関係にあったのではないかと私は疑っているのですが・・・)
これも、寄り騎、組下になると、普通はその総大将と主従類似関係になって配下になるものと当時では考えられていた一つの例です。
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