02/22/04

与力 (寄り騎)4

「寄り騎」と言うのは、本来、1時的な応援・加勢でしかないのですが、共同行動しているうちに人間関係・信頼関係が出来てきますので、その後主従関係類似の関係になって行くことが多かったようです。
寄り騎の原始的形態である(と私が考える)戦国大名成立直前の状況を考えると分り易いと思います。
例えば、上杉謙信の父長尾為景が各種合戦を繰り返して地歩を築いて行くのですが、その都度、越後の豪族、国人層が為景についたり敵対勢力についたりして、離合集散を繰り返します。
この繰り返しの中から、いつも為景に加勢する勢力が決まっていき、これらが主従類似の関係になり、ついには正式な主従になって行く様子が見られます。
こうした加勢関係は、加勢する本人の主体的な判断で決まるものですが、戦国大名の規模が大きくなった戦国後期では、こうした豪族が盟約関係上の上下関係にとどまらず、家臣団に組み込まれてしまいます。
同盟から始まった家康でさえ、信長に対して、次第に臣従の形になって行くのはご存知のとおりです。
この段階では、本人の意思でどちらを加勢するなどを決める権利がありませんので、主君の意思であちこち加勢を命じられるようになったのです。
このころから加勢と言う表現がなくなって、「寄り騎する」と言うようになったのだと思いますが、これが更に奉行所与力のように個人的な与力でなく、職務上の関係になると、漢字も「与力」と変わったのではないかと思っているのです。
関が原の合戦では、東西どちらにつくかの加勢関係が大名レベルで問題になった最後の段階だったと言えるでしょう。
この段階では、戦国大名傘下の個々の豪族は、例えば上杉家傘下の諸豪族は、上杉家の軍議に参加してどちらにつくかを発言しますが、上杉家として決まった以上は、自分だけ別の勢力に加担するのは、謀反と言うことになります。
本当の最後は、幕末のご一新で、薩長・官軍に付くかどうかだったとも言えますが、鳥羽伏見の役では薩長対会津・新撰組連合軍が中心で、諸藩は筒井順慶よろしく洞ヶ峠を決め込んでいて勝敗が決まってからの官軍参加でした。
他方、蔽奥羽列藩同盟は、その後の意思決定ですから、時代感覚が狂っていると言われても仕方ないですよ・・・。
その上彼らは会津をのぞけば、殆ど外様大名ばかりで、幕府に義理立てしなければならない立場ではないのですからね。


今日の読み物間連:




関連ページリンク

Powered by msearch
稲垣法律事務所:コラム:検索

検索ベースはこちらから

稲垣法律事務所コラム内:江戸に関するコラム
稲垣法律事務所コラム内:世襲に関するコラム
稲垣法律事務所コラム内:身分 に関するコラム
稲垣法律事務所コラム内:中世 に関するコラム
稲垣法律事務所コラム内:幕府 に関するコラム
稲垣法律事務所コラム内:役人,官僚に関するコラム
稲垣法律事務所コラム内:戦国 に関するコラム


コラムTOP

リンクを当コラムにはられる方はお読み下さい

©2002, 2003, 2004, 2005, 2006, 2007, 2008 稲垣法律事務所 ©弁護士 稲垣総一郎
Design / Maintained by Pear Computing LLC



ブログ
株式投資