02/21/04
江戸時代の裁判2 与力 (寄り騎)3(本能寺の変)
もともと寄り騎という言葉は、織田信長、豊臣秀吉等の物語で良く出てくるので、お聞きになったことのある人が多いと思います。
与力とは、誰かの家来や従者でなく「力を与える」または「あずかる」即ち応援部隊のことでしょう。
武士の勃興以来江戸時代に至るまで、主君から命じられた仕事は自分の手勢でこなすのが武士社会の基本でした。
例えば薩摩藩が、ながら川の改修工事を命じられて経済的に苦しんだのは有名ですが、仕事をしてその費用が幕府から出たのなら、何も問題がなかったのです。
一切の費用は、薩摩藩の自分持ちだったからこそ、歴史に残る大事件になっているのです。
また幕末の京都所司代職で有名な会津藩の場合も、その全般的な仕事は自分の家臣団で処理しなければならないのが原則でした。(そうした奉公の為の家禄です)
ただし、大阪城代や京都所司代では、仕事が大きすぎて町奉行やその他の必要とする人数を一藩だけでは賄いきれない為に、恒常的に京都町奉行やその配下の与力同心が幕府から支給されていた関係になっていたのです。
また町奉行も何千石かの大身旗本の職務でしたが、奉行になった旗本の家来だけで、町の行政や取り締まり全般を全うさせるのは無理がありますので、はじめから与力や同心を、配下として支給していたのです。
同じ旗本同士の寄り騎では、本来同格(同僚間の上下でしかないという意味です)ですから臨時的でしかあり得ませんが、奉行などの人数不足は恒常的なために同僚の旗本ではない、別格の与力制度が生まれたのでしょう。
この違いが「寄り騎」を「与力」というようになった原因ではないでしょうか?
このように、武家が始まって以来、武家は自分の家来を引き連れて職務・合戦に参加するのが本来でしたが、職務が手に余るときには、他の同格または格下の家来に命じて応援させることがあります。
この場合、応援を命じられた大名は「寄騎大名」と言うようです。
一旦寄り騎になると軍事行動の原則から、上名下服即ち下風に立つことにならざるを得ません。
豊臣秀吉が柴田勝家の北陸攻めに際し、信長からその「寄り騎」を命じられております。
このころ既に柴田勝家と対抗関係になっていた秀吉は潔しとせず、勝家と喧嘩して勝手に陣を引き払ってしまいます。
信長の命にそむいた廉で、罪を問われる立場になり秀吉1代の危機となる場面があります。
以上は単に娯楽読み物からの知識ですから、真実はわかりませんが・・・・。
また明智光秀が謀反を起こす直前に、中国攻めの秀吉の応援を命じられて出陣の途中で、本能寺に殺到するのが「本能寺の変」と言われるものです。
前記の柴田勝家と秀吉の例で分るように、光秀としては秀吉の傘下の武将になれと言われたのと同じで訳ですから、競争相手のサルの下にだけはなりたくない光秀としては、乾坤一擲、謀反の挙に出たとしてもおかしくありません。
この点は、柴田勝家に置き換えても同じだったでしょう。
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