02/11/04
水戸家は政権内野党?(教養と職務が乖離すると?)
水戸家は僅か25万石(後に28万石)ですから、家康の子供の中で貰った領地が極端に少ない結果からみると、子供の中で一番出来が悪かったのではないでしょうか?
家康から後に勘気を受けた六男松平忠輝でさえ、越後福島で60万石(本によっては75万石)をもらっているのです。
もっとも、水戸家の初代は家康の11番目の男子ですから年が若過ぎて、順次領土を貰うチャンスが少なかっただけとも言えますが・・・・・・・。
あまりみっともないので?後に一生懸命検地して表高を増やす努力をして(こんな努力をする大名が外にあるでしょうか?)やっと30何万石に訂正していますよ。
また将軍家継承問題でも全く対象になったことがありませんし、格式から見ても駿河大納言家の例に明らかなように、御三家以外にも、大納言まで行ってるのがいます。
水戸家に限って権中納言でしかなく、家格の低い水戸家がどうして他の御一門よりも特別な御三家と言う格式を受けたと言えるのでしょうか?
参勤交代制度について前回のコラムで紹介しましたが、水戸家に限っては常勤を免除されず、定府と言って旗本並の待遇でした。
これを参勤交代から除外された特権のように殆どの本が書いていますが、前回のコラムで書いたとおり、待遇としては逆でしょう。
なんとかして、水戸家を持ち上げたいと言う立場からのこじつけが見え見えです。
江戸と水戸では、昔は日帰りが出来ませんので常勤を義務付けられていると、大げさに言えば一生自分の領地へ行くことは出来ません。
光圀のように「失政」をして隠居を命じられてはじめて領地に滞在できるだけです。
ちなみに光圀は、「隠居」と言う処罰を受けた人物であって、将軍綱吉に意見などできる立場ではありませんでした。
常勤を命じられる以上は、特別な役職をもらえたかというと何の役職もありませんでした。
自分の領地にも行けないのですから、生活費保証としての知行地でしかなかったと言えます。
嫁入りの際の化粧領みたいなものですから、一応言江戸屋敷を貰いましたが、おおきな部屋住み・飼い殺し的な存在だったのです。
このように水戸家は徳川一門でありながら、何の仕事もなく、時間つぶし的に登城するばかりですから、何の実務経験も見識も育ちません。
今も昔も同じで、何かの仕事に従事しながら経験を積んで地位が上がって行くもので、家柄が良いと言うだけで、何の経験もさせてもらえないのでは、何か大事件が起きて意見を求められても、まともな意見を言う能力が育っていません。
領国経営もやったことがない、かと言って中央でも何の仕事もしないで、経験がないから無能なまま年を取れば、御一門だと威張っていても、誰も相談にもこないし何もしないで一生が過ぎて行くだけの人生です。
現在に引き当ててみれば、大手企業のオーナー家が、会社経営に全く関与せずに何十年もたてば、会社経営について経営陣から相談されても適切な意見を言いようがないのと同じです。
落語にも出てくるように、水戸様の御屋敷は格別やかましいところでした。(「孝行糖の本来は・・・」と言う落語です。)
結局庶民に向かって「うちはそこらの大名とは違うんだぞ。」と威張り散らすくらいしかなかったのではないでしょうか?
歴代冷や飯食いであったために、早くからご隠居して大日本史等にエネルギーを注いだり、歴代藩主は幕政を斜めに見て、水戸学という歴史学に傾倒する体質になっていたのではないでしょうか?
日本では、知的階級は一人残らず日本の将来を憂えたり、政権非難をする性癖がありますが、これは江戸時代に武士階級が、支配者としての教育を受けた歴史があるからです。
江戸時代は、その武士が100%仕官して行政に携わったのですから、受けた教育と実際に乖離がありませんでした。
教育や大学の歴史を昨年秋に連載しましたが、学者もホワイトカラーも元はと言えば、全員日本はどうあるべきかの教育を受けて来たのです。(帝国大学令・・でサーチしてください)
その教育の成果を生かすには、官僚になるべきですが、明治以降は全員が官僚になる仕組みではなくなりました。
学者や、ホワイトカラ-は官僚になれなかった僻みが深層ではありますので、1人残らず評論家になるし、野党的立場になりやすいのです。
このように分析して行きますと、これまで気付きませんでしたが、かく言う私も官僚になろうと思ったことは一度もなかったものの、深層心理ではその1人かもしれません。
水戸家は、このような野党的インテリの草分けではないでしょうか?
こうした蓄積された不満の歴史が、危急時になって、水戸浪士による桜田門外の襲撃事件や天狗党事件の騒ぎにつながり、反幕府運動の巣窟になるのです。
またこうした野党的、反主流的立場が幸いして、幕末混乱期に水戸家出身の慶喜が将軍になれたのは、「それならやらせてみろ」的な、政権の転がり込み立った可能性があります。
やらせてみたら、案の定水戸学どおり、大政奉還ですから、徳川宗家としては大不満だったでしょう。
ですから、鳥羽伏見の敗戦後は、江戸城内では、孤立無援で誰も近づかず、終日ポツ〜んと1人でいたと言う話があるほどです。
もちろんと言うべきか、ずっと野党で来た水戸家は、大奥では嫌われていましたから慶喜の正室は、最後まで大奥に入れなかったらしいですよ。
言うまでもなく、徳川宗家は家達が継いだのであって、慶喜は臨時雇いとして将軍にはなりましたが宗家の主にはなれませんでした。
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