02/10/04
参勤交代制度の功罪
御三家のうちで、水戸家だけが江戸定府と言って、参勤交代がなかったのを特権のように書いている文書が多いので、ついでに参勤交代制度に関するの私の考えを紹介しておきましょう。
もっとも私の考えと言っても、いつの間にか誰かの説が身についていて、どこの本に書いてあったとおぼえていないだけのことかも知れません。
その受け売りと言う可能性がありますので、そのつもりで御読みください。
学校では、参勤交代制度が出来たために、諸大名にとっては大変な負担だったと教えていますが、話しが全く逆です。
寛永12年の武家諸法度によって、それまでの江戸詰の常勤義務が隔年勤務(吉宗のころ上米の制度で一部免除されたこともあり、そのうち3年に一回で良くなり、幕末には誰も守らなくました。)に解放されたのは、世界史的にみても画期的な制度でした。
これによって、各大名が領国経営に精出せるようになったもので、(地方の特産品が生まれたり、情報が行き渡ったのです)学校で習っているのとは、話が全く逆なのです。
それまでは御家人や武士は、主君の城下や鎌倉に常勤していなければならず、領国に帰るにはお暇をいただかねばならなかったのです。
これが守護代など留守を預かる者の実力蓄積につながり、(領主の弱体化)応仁の乱などの原因にもなって行ったのです。
お暇をいただいても2〜3日で直ぐ帰らないと、謀反の疑いをかけられるので、戦々恐々としていたことは、信長や、秀吉時代の物語で御読みになったことがあるでしょう。
これもうろ覚えですが、関が原の合戦は、徳川の牛耳る大阪(伏見)への出仕を上杉が拒んだところから、上杉征伐軍編成の問題に発展したものです。
しかし天下が統一されてみると、戦国時代の狭い領国内の城下常勤義務と違い、遠距離化してきますので中世と同じ問題が生じてきます。
外様大名は、徳川の家来ではないので常勤の義務は本来ありませんが、その代わりに忠誠を示す為に頻繁に江戸に顔を出す必要があって、これが大変だったのです。
寛永12年の武家諸法度は、こうした大名の不便を無視できなくなったことから制定されたものです。
せっかく大名を統制下においていても、その大名が地元で浮き上がって実権を失ってしまえば、結局全国に威令が行き渡らなくなってしまうのですから、幕府も放置できなくなったのです。
参勤交代制度が出来た結果、諸大名は機械的に顔を出せばよくなって助かったのです。
これまで当然江戸常勤の義務があった徳川譜代の家臣でも、参勤交代制度が法定されたついでに、大名・即ち万石以上は外様大名同様に交代で江戸詰すればよいことになりました。(老中その他役職者は別です。)
参勤交代制度が出来ても、大名以上に適用されただけですので、旗本、御家人には当然常勤の義務があり、参勤交代どころではなかったのです。
たまにお暇を貰って、知行地に行ってもトンボ帰りしか出来なかったのです。
大名家の家臣も同じで、参勤ではなく常勤で城下に詰めていなければならなかった点は中世と同じです。
このように原則常勤であった主従関係が、参勤交代制度によって大名以上になれば、領国経営のために国許で一定期間安心して暮らせるようになったのが実情です。
その制度から洩れた大名の家臣団や、徳川の直臣は旧来どおり常勤が義務付けられたままでした。
西洋の諸侯が、常勤義務を免除されなかった為に宮廷貴族化して無力化し、(パーテイばかりでは軟弱になりますよ!)絶対王権が確立して行った歴史を学んだ人が多いと思います。
我が国でも、江戸常在家臣団や婦人達が、都会化して国許では想像もつかないような莫大な出費になっていたことは大抵の書物に紹介されているとおりです。
参勤交代制度は、隔年または3年に一回江戸に行くことを強制したのではなく、逆に常勤が免除したのですから、大名の負担を減らした世界史的にも画期的な制度だったと思います。
この画期的制度が、地方の力を養い、我が国の幕末期に沸騰するエネルギーの源泉になったのです。
今日の読み物間連
関連ページリンク
稲垣法律事務所コラム内:江戸に関するコラム
稲垣法律事務所コラム内:世襲に関するコラム
稲垣法律事務所コラム内:結婚、婚姻に関するコラム
稲垣法律事務所コラム内:遺産、相続に関するコラム
©2002,
2003, 2004, 2005, 2006, 2007, 2008 稲垣法律事務所 ©弁護士 稲垣総一郎
Design
/ Maintained by Pear Computing LLC
