02/08/04

江戸時代の相続制度 8(町人)

町人の場合、相続財産は営業資本たる家屋敷、金銀、及び商品、信用ですから武士や農民とは対照的ですね。
初期のころは、農村部への商品流通は不活発でしたが、中期以降は、活発となって、武士や農民が単独相続移行が一般になったのとは逆に、商人では、分家創出や、のれんわけ等が行われるようになっていました。
とはいえ、景気の良いときでも次々支店を出して拡大していける成功者のほうが数の上では少数ですから、成功者が普段より多く見られるようになったと言うだけのことでしょう。
資本の分散は、経営を弱体化しますので、多数を占める現状維持の商人にとっては、株仲間の固定化もあって、単独相続しか出来ないのは、現在の建築屋、蕎麦屋などの個人商店と同じです。
ただし、相続人については、家業能力の有無が選定の基準であったのです。
これが結果的に早くから家業に従事していた経験豊富な長男が有利になっただけであり、規範意識として長男でなければならないという考えはありませんでした。
長男でも能力がないとなれば、あっさり排除されましたし、場合によっては実子全部を排除して、有能な養子を取ることすらありました。
それだけに、誰が相続人になるかは深刻な問題でしたので、生前に、譲り状或いは、遺言状を予め町役人への提出しておくことが義務付けられていました。
現在(即ち江戸時代以降)のように法定相続制ではなく、中世以来の遺言を原則とする法制が残っていたのです。
中世では遺言が相続を決めていたことは、1月23日の「中世から近世へ3」のコラムで、「悔い返しが安堵状を破る」と言う法諺で紹介しました。
最近遺言が推奨されていて新しい制度のような感じをお持ちの方が多いと思いますが、実は日本古来の相続方法であったものを、家督相続妨害の為に江戸時代に武士に限って法定相続化していただけだったことが分りますね。
あえて言えば、江戸時代以前は、武士も含めて、被相続人の意志で100%決める遺言ないし生前処分が原則でした。
それが、江戸時代になって、出来るだけ相続させないように、武家に限って家禄は法定相続、しかも長男単独相続を原則としただけだったのです。
ただし、前回のコラムで書きましたように、江戸時代にも将軍家自体が子供達に5〜60万石単位で、どしどし分割相続させていました。
家光の異母弟の保科氏は、会津藩の開祖となって23万石です。
また、綱吉も将軍になる前は、館林城主でしたし、次ぎの6代将軍家宣も甲州の藩主でしたから、それぞれ分割相続していたのです。


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