02/05/04

江戸時代の相続制度 6(武家)(岳父)

前回のコラムで紹介しましたように、江戸時代には当主が幼少時のうちには、養子を取れませんでした。
具体的には、養父は30歳以上であることが要求され、養父より年長または尊属でないことが要求されました。
年長でないことはともかく、尊属でないと言う点は親等の関係で、自分より年下でも家系上尊属になる場合が有るのです。
将軍吉宗と綱吉の幼女になっていた竹姫との婚儀が持ち上がったときに、系列上大叔母にあたると言う理由で、天障院に反対された例があります。
大名・家臣の方は、お家断絶を防ぐ為には、当主の弟を先ず養子にしておき、弟が現当主の長男(すなわち幼少です)を養子にしておく、中継相続が多かったようです。
このように主君側では、折あらば領地を取り上げたいし、家臣側では、継続を図るためにも、御互いに知恵を絞っていたのです。
忠臣蔵の例を上げましたので、敵役の吉良・上杉家の場合を紹介しておきましょう。
戦国の雄上杉謙信の遺鉢を継ぐ上杉家は、大阪で事実上天下を牛耳っている家康をおびき出す役割を果たし、その留守中に石田光成が兵を上げたのですから、関が原の合戦の一方の主役でした。
関が原で石田光成が負けてしまったので、120万石から、30万石に縮められたのは、ご承知のとおりです。
ところが、その3代目綱勝が世嗣ないまま死亡した為に、一旦断絶しかかったのも有名な話です。
このときに、家光の異母弟で、4代将軍家綱の補佐となった幕府実力者であった岳父保科正之の尽力で、綱勝の妹が嫁いでいた高家の吉良家から養子綱憲を養子に迎えることを認められました。
死亡後の養子ですから、正確な意味の末期養子では有りませんから、言うならばごり押しもいいところです。
その代わり30万石から、15万石に減封されてしまったのですが、まあ文句は言えません。
120万石が僅かの間に15万石になり、しかも実高200万石と言われた謙信以来の家来を、一人も召し放ち(解雇)しなかったと言うのですから、(仁義に厚い伝統です!)大変な経済困難に見舞われました。
米沢に行ってみると、質素な御城で(というよりも小さな神社程度です)、貧窮振りが窺えますよ。
ちなみに、妻の父親を称して「岳父」と世上安易に言う人がいますが、「岳父」の本来の意味は、宰相の張説(ちょうえつ)が玄宗皇帝の封禅使になった(泰山=岳での封禅の儀式執行責任者)とたん、その娘婿が9品官から3品官に見る見る出世した故事にちなんで生まれたものです。
この由来から、岳父と言う言葉が生まれたのですから、娘婿の出世を左右出来るほどの力のある義父にだけ使われるべき言葉で、妻の父であればすべて岳父と言ってもらえるものではありません。
この場合の保科氏は、ぴったりですね。


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