01/24/08
文化交流の途絶と中国の先祖帰り
話を戻しますと、漢武帝は、西域通商路を開いたものの、その先に通商すべき先進国が何もなかった・・ローマまで行くには、遠すぎたので、その後が続かなかったのです。
大苑までの遠征はしたものの、漢民族だけの力で行けるのはそこまでが限度で、そのまた3倍ほども距離のあるローマまでの通商路を切り開くところまでの能力はなかったのです。
シルクロードが機能するようになったのは、そのずっと後、ササン朝ペルシャが興隆して、そこから優れた文物が流入できるようになってからです。
その間、魏晋南北朝のころに仏教が、チベットを経由して北上して西域南道にはいり西域から北魏を通じて入ったことがありますが、言うならば経路の途中から横入りしてきたもので、武帝の功績には何の関係もないでしょう。
わが国でもそうですが、中央の威令が届かなくなると、山賊などが出て通商路も分断されてしまうのが歴史の示すところです。
世界の要の位置にあったメソポタミや文明・・その最後を飾る古代ペルシャ帝国が崩壊してしまってからは、途中の諸民族が跋扈するようになって、通商が滞ってしまっただけでなく目的地がなくなってしまったのです。
わが国でも、天智天皇当時の白村江の海戦の敗戦以降、独自文化が生まれる下準備が出来、さらにその後の遣唐使廃止で、いよいよ加速されて、源氏物語や古今集など和歌・・独自文化隆盛に行き着くのです。
ですから、中東地域からの先進文化流入停止は、よく言えば、中国独自の文化が生まれるようになったとも言えるし、逆に言えば、絶えざる先進文化の流入がなくなって、能力相応に先祖帰りしたとも言えるでしょう。
こうした結果については、唐時代の文化が最頂点でその後はジリ貧になった不思議さに関して、西域を通じたササン朝ペルシャからの文化流入が停止したからであるという視点で、09/03/05「中国の発展形態の異常性2(ペルシャの影響2)」前後で連載したことがあります。
中国は古代から先進文化流入が無くなると逆行または停滞し、新たに流入があると爆発的に伸びることの繰り返しであったと言うのが、私の中国に対する基本的歴史観です。
アラブのダウ船の開発については、09/03/05「中国の発展形態の異常性3(ペルシャの影響3)ダウ船]以下で紹介しましたが、ダウ船の開発以降、西域を通じた古代通商ルートよりは海上を通じた通商が中心になってくると、黄河流域の地盤が低下して長江流域が南宋以降中国文化の中心になってくるのも、輸入を通じて発展できる文化であると言う文脈で理解できるのです。
(現在の香港〜広東〜上海への順次の隆盛も、同じ文脈で理解できるでしょう)
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