01/23/08
武帝の求めたのは馬だけだったか? 2( 西極天馬の歌)
話を張騫の西域行に戻します。
私の推測では、古代通商路の再開を求めたものではないかということですが、しかし、この時点では、肝心の目的地には、既にペルシャ帝国がなくなって久しくそのずっと先に大秦国(ローマ)があると言うだけでした。
当時のローマは、イタリア半島内の同盟都市の反乱を経て、シーザーの台頭する内乱の世紀に差し掛かるころでしたから、中央アジアを越えて遠くはなれた中国地方に関心を示すほどの余裕がなかったころです。
戦国時代で言えば、やっと京の都に攻め上ってみれば、既に都はなくなっていて、遠くの山口(周防の国)避難しているようなありさまだったというべきでしょうか?
これでは、先端的文物の入手は出来そうもないので、武帝は汗血馬と言う名馬を手に入れて満足するしかなかったのです。
シルクロードが再び開通しても、輸出されるべき相手がいなくなっていたのですから、意味がなかったのです。
結局、劉徹は、武帝と言うおくり名・諡号のとおり、遠征するしか能がない結果になって、文帝・景帝と2代に亘って蓄積した富を使い尽くし、次の世代以下が財政破綻で漢帝国がジリ貧になっていく下地を作ったのが彼です。
(実際有力な太子を巫蠱・フコの罪で処罰するなど政治家としては、無能だったのです)
北方遊牧民である匈奴相手にいくら戦に勝っても、経済的あるいは文化的に得るべきものは何もありません。
匈奴は北ですが、西域方面に進出して、獲たものは結局良馬でしかなかったのです。
今から言えば、無意味な領土拡張でしたと言うよりは、いまなら、まだ資源開発の楽しみもありますが、当時は荒涼とした中央アジアの砂漠地帯を結ぶ点々たるオアシス国家を獲得しても、その維持経営費にコストが掛かるだけで、何の意味もなかったはずです。
オアシス沿いに屯田兵を配置したものの、結局は砂漠に呑まれてしまったことは、楼蘭の遺跡などでご承知のとおりです。
行く先々で、屯田・・灌漑にこだわったことから、中国の王朝を漢帝国というようになったことを、01/05/07「戦争の合理的原因2(農業社会の戦争2)」その他のコラムで紹介したことがあります。
李広利将軍を派遣して何千キロかなたの大苑(フェルガナ)を討ち、良馬(汗血馬)10頭、中馬三千頭余を得たときの得意の漢詩が有名です。
子供みたいなもので、政治家の資質としては最低だったかもしれません。
漢武帝が有頂天になって作った・・あるいは宮廷詩人に作らせたと言う漢詩を次回紹介しましょう。
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