01/23/08
古代中国の戦車3(牛車の先祖?)
まして青銅器時代であった春秋時代には、(戦国時代は青銅器と鉄器の併用時代)丸太を切り出すまでは何とかなっても、これを丸く車輪の形に加工するなどはかなり高度な刃物がないと不可能とまでは言わないでもかなり困難な作業だったはずです。
精巧な木製製品を作るのには、これに対応する鋭利な鉄製品の出現が必要であったことと、強度補強のための鉄製品がなかった青銅器時代には、ま、貴人が長時間移動しても疲れないための乗り物として、膨大な時間を費やして、やっと動く程度の物を作っていただけでしょう。
木造の荷車と言えば、私が高校生のころに、神田の青果市場(現在の秋葉原駅前です)に出入りしていたのですが、そこでは、青果物の移動・・運送業者のトラックに積載する集荷場所までの場内移動には、まだ木材が中心の大八車が日常的に使用されていました。
その大八車の部材は車輪が木で、周りに鉄を巻いたもので、木材中心のものでしたが、その代わり木の要所要所には鉄で巻いたり、鉄で留めてあったものです。
しかし、始皇帝のころには、まだ青銅器時代ですから、補強材として、部分的にも鉄が利用されていなかったのです。
ちなみに日本の平安貴族が儀式用に利用していた牛車も、日本の草の根から利用していたものが、中央で豪華になったものではなく、中国から渡来したものを後生大事に、しかもわが国特有の丁寧さでいいものに仕上げていった物ではないかと私は常々考えています。
何しろ、わが国では、都の貴族以外には、地方で地下人が習俗として牛車またはこれに類するものを利用した形跡がなく、都・・しかも平安期貴族社会で忽然として現れたものでしかないのですから、これは遣唐使による輸入・舶来による習慣である可能性が高いのです。
ということは、当時の中国で・・唐の時代にも2輪の牛車が貴人の移動用に利用されていたということでしょう。
もしも、唐で馬を利用していたら、わが国でも馬があったのですから、馬を利用した馬車になっていたでしょう。
光源氏は、お忍びのときには、騎馬で出かけていたのですから、日常的には馬があったのに、わざわざ牛車を正式な時にだけ利用していたことが分かります。
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