01/22/08

古代中国の戦車3

東大寺に行っても(これは江戸時代の再建です)法隆寺や東寺に行っても板が貼ってありますが、それは本体の変更では無く、間仕切りですから、後世の人が時代に合わせて必要に応じて入れ替えて行っただけのことでしょう。

田舎の大きな家でも文化財はべつとして、本体はそのままでも時代に合わせて、部分的にサッシの窓にしたり畳を入れたりして変化していくものです。

じゃあ、法隆寺などは文化財だからそのまままだろうと言うことですが、文化財として保存するようになったのは近代になってからのことであって、それまでは実際に使われていたお寺ですから、時代にあわせて、利用方法・生活が変ってきたのは当然です。

現在の大仏殿も入ると足元はコンクリート敷のような感じですが、古代からコンクリートを敷いていたのではありません。

3月堂(法華堂)に20年ほど前に行ったときには、足元はタタキだったのですが、昨秋行ったときには、板敷きでゴムっぽいシートが敷いてあって、靴を脱いで入る仕組みになっていました。

もちろん、奈良時代から板敷きゴムシート張りだったのではありません。

鎌倉時代までは美術品といっても一木作りまたは塑像や金銅(ならの大仏など)が中心で、運慶、快慶などによる寄木作りの仁王さんなどは出来なかったのです。

木を切り倒す、最初の道具は斧ですが、この程度の大雑把なものは鉄器の製造としてかなり早くから作れましたが、これが精密なのこぎりなどに発達するにはかなりの時間が掛かります。

さらに板を作るには、縦に切る鋭利な鋸の発達が必要ですが、それが長い間出来なかったので、セイゼイ丸太を半分に割いて使うくらいが限度でした。

丸太から2枚しか取れなかったのです。

木造製品と言っても、結局は製鉄技術の問題ですが、鎌倉時代から日本刀の名刀が出来るようになったのも単に名人が出たと言うだけではなく、冶金技術の発達に関連があります。

鉄器時代に入ったと言っても、鉄を何とか作っていただけで、鋸のような物を誰でも使えるように大量に作れるようになるには、千年単位の時間がかかっていたと言うことでしょう。

紀元前1500年ころのエジプトで、鋸が出土しているようですが、日本で鋸が一般化してきたのは江戸時代からです。

ただし、ここで書いているのは一般化した場合であって、貴重品としてののこぎり・あるいはきれいに削った板が、かなり昔から宝物のようにあった可能性を否定するものではありません。

正倉院の御物にガラス製品があったからと言って、昔からガラス戸が一般化していなかったと言えばいいでしょうか?

 

 



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