01/21/08

武帝の求めたのは馬だけだったか? 1(種牡馬とは?)

前漢の武帝(在位前141-87)が、匈奴に追われて遠く西方に逃げていた大月氏との同盟を図るために張騫を派遣した(紀元前126年帰還)と言われていますが、これは匈奴討伐のためだけではなく西域通商路再開・・確保のためだったと見るのが妥当でしょう。

何しろ匈奴は漢の北方民族であり、後に紹介しますが、匈奴に捕らえられていた蘇武はバイカル湖のほとりに抑留されていたことからも分かるように、匈奴の本拠地は、漢の北方・・現在の内モンゴル自治区からモンゴル共和国のあたり・・あるいは黄河の北へ屈曲する岐連山脈周辺でしょうから、・・・そこから、時々南下して漢の農民から略奪したり西域通商路をおびやかしていただけです。

ただし、このころは、かなり勢力が伸張して、いわゆる河西回廊付近にいた月氏を追い払って、西域通商路の入り口に当たる河西回廊一帯の支配権を獲得していたので、その部分からの駆逐が必須であったことも確かでしょう。

言うならば時々山から降りて街道筋を荒らしていた山賊が、街道筋に拠点を構え、支配するようになったような状況だったのです。

それを挟撃するために、と言ってもそのずっと南方にある通商路の西・・タクラマカン砂漠の西の果て数千キロ彼方に逃げた大月氏・・現在のアフガンの北部地域の周辺らしいです・・と同盟を組むなどは、軍事的にそれほど意味がないのです。

むしろ西域通商路再開準備のために、その道筋の様子を探らせ、ついでに通商路に出没する匈奴の妨害を共同で防ぐ方策を協議したいと言うくらいが本来だったでしょう。

その証拠に、西域通商路(今のキルギスあたり?)に位置し、張騫を助けてくれた恩のある大苑を、匈奴討伐より先に口実を設けて攻撃しているのです。

この大苑討伐によって軍事用の馬を得て漸く、匈奴と対等に戦えるようになり、西域通商路への入り口・・いわゆる河西回廊を確保(いわゆる河西4郡・・武威(ぶい)、張掖(ちょうえき)、酒泉(しゅせん)、敦煌(とんこう)の四郡の設置です)し、西域通商路への進出・・シルクロ−ドの基礎が開かれたのは周知のとおりです。

ところで、匈奴やオアシス周辺民族では馬を乗馬の実用に使っていたでしょうが、多分、そのころまでは、中国では、馬は殆ど実戦・・実用的に使用されていなかった可能性があります。

セイゼイ荷車引きくらいだったでしょうか?

その他、いわゆるいけにえ・・犠牲の漢字は牛偏ですし、牧場も牛偏であるなど漢字の始まりにあまり馬偏は出てこないのです。

美しいの語源はご存知のとおり羊が太った形ですし、当時重要な動物には馬が出て来ないのです。

デイープインパクトの引退で有名な漢字になった「種牡馬」(しゅぼば)という漢字を見ても分かるように馬の繁殖用語なのに牛偏しかないので、その後ろに馬という漢字をくっつけているのです。

種牡馬という漢字だけ見ると何となく牛と馬のアイノ子製造機みたいですが、この1月9日に第1号の雌馬が生まれましたが、牛と馬のハーフではなく、やはりレッキとした馬でした。

 

 



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