01/20/08
古代文化交流の途絶8(アレキサンダー大王の功績2)
以前書きましたが、唐王朝(618〜907)の文化の発達もササン朝ペルシャ滅亡の余波で、貴族インテリ層の唐朝への亡命が活気を呈したものでした。
ちなみにササン朝ペルシャの滅亡は、651年でヤズダギルド3世の子、ペーローズが唐王朝に亡命したのは661年でした。
そのころには、ササン朝と唐王朝と直接の接触があったので、唐の存在が知られていたから、亡命先にも選ばれたのです。
このペルシャ文明との直接接触による興奮・・影響がさめると、さしもの絢爛たる唐の文化も元気をなくし、後は下降線をたどる一方になったのです。
これに対して戦争の勝者は、文化人や技術者の殆どを手に入れられたと見るのが普通です。
第二次世界大戦後は、ドイツの優れた学者を多く手に入れたのは勝者のアメリカだったことは記憶に新しいところです。
西洋世界から見れば、アレキサンダーは、世界の文化中心地であったオリエント地方を破壊して、古代世界でのオリエントの世界中心性を消滅させて、文化の中心地を西の方へ移転させてしまった・・ローマ世界・・あるいは現在の西洋文明の基礎を作った立て役者です。
マケドニア王国崩壊後エジプトには、アレキサンダーの遺産としてのプトレマイオス王朝が残りますが、これは東地中海方面中心に勢力を張り、中央アジア方面には関心がなかったのです。
その後、中央アジアを越えて東洋まで影響を及ぼす王朝が生まれるのは、約550年後のササン朝ペルシャ成立(紀元後226〜651)まで待たねばならなかったのです。
こうしてアレキサンダーによる征服によって、メソポタミア文明はぶち壊され、その遺産は地中海世界中心に受け継がれていくのです。
プトレマイオス朝は自分の命脈を維持するのが漸くであったことは、シーザー・アントニオとクレオパトラの故事によっても知られるところです。
マケドニヤ崩壊後・・紀元前300年前後から紀元前までは中国の戦国時代から、秦漢の成立にいたる時期ですが、西方では地中海の中央部分にローマ帝国が興隆した時期にあたり、中東地域の文化中心性が消滅しつつあった時期です。
パレスチナ方面は、ローマに隷属する辺境でしかなかったのです。
このため、オリエント地方の進んでいた文化の中心が西方のローマに重心を移してしまい、中央アジアを経由した中国への先進的文物の流入が、途絶えてしまって久しかったのです。
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