01/20/08
古代文化交流の途絶7と陰陽五行説6(アレキサンダー大王の功績1)
五行説は・・戦国時代末に陰陽説と結びつき、神秘主義・呪術傾向が生じたのは、何故でしょうか?
いきなりこうした非合理な方向へ思想が偏ったのは、多分このころ(春秋戦国)から西域を通じた古代ペルシャなど先進地域からの文物の流入が途絶えて、中国では自分で考えるしかなくなっていたからではないかというのが私の仮説です。
光り輝く5個の惑星の重要性のニュースは中東・オリエント地域から入っていたのでしょうが、(7サイクルの休息法は古代オリエントで始まったと言われています)その後の研究の結果、さしあたり人類の時間観念の精密化には関係がないことが、中東や地中海地域では分かったので、実用的休息法として利用されただけで、哲学的にはお蔵入りになってしまったものでした。
アリストテレスの4元素説も、惑星の数に無理に結びつけたものでなく単なる客観観察の結果でしたから、あとで観察が進めばいくらでも修正が可能だったのです。
オリエントから地中海世界に掛けてお蔵入りになってしまった情報が、伝わらないまま、天文はありがたいものだと言う意識だけで、独自?研究にはまった結果、変な方向へ行ってしまったのが、易学や「陰陽」五行説ではないか?と言うのが私の仮説です。
中国の春秋戦国時代(紀元前770年〜紀元前221年)といえば、地中海・中東地域では、世界に輝いていた古代ペルシャ大帝国も対ギリシャ戦争で負けたり、(マラトンの戦い紀元前490)徐々に体力が低下しており、最後にはアレクサンダー大王の遠征によって・ペルシャ帝国は消滅(紀元前336年)した時期です。
これによって、シュメール分明に始まるメソポタミア地方最後の文明が消滅したのです。
古代ペルシャ帝国を滅ぼしたアレキサンダーのマケドニア王国もすぐ瓦解しますので、中東地域には世界に文化発信できる大国がなくなります。
アレキサンダーの遠征は、西洋には良い結果をもたらしたので、英雄視されていますが、世界全体で見れば、せっかくの文化中心地域・・扇の要ともいうべき部分をぶち壊して真空状態・文化荒廃地帯にしてしまったとんでもない大悪業と言うべきです。
西から攻めてきたアレキサンダーに対して、逃げるとすれば東ですが、当時の交通手段からして1万キロ前後もある中国や数千キロ先のインド地方まで逃げ伸びることは不可能ですし、逃げたとしてもごく僅かでしょう。
まして、当時の中国は、長い通商路の終着点くらいの価値しかなくて、存在することすら知られていたかどうかと言う時代ですから、そこまで逃げていくモチベーションが弱かった筈です。
それでも少しはいたかも知れませんので、これが、中国の諸子百家の隆盛や、インドの仏教成立に繋がるのかもしれません。
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