01/12/08
通商の途絶2と12年周期
そのうち、宇宙の観察によって、惑星の木星が12年弱の周期で移動していることが知られるようになりました。
月の運行を基準に開発した12周期の考えが、年周期の基準にもなるということで、中国ではこれを喜び?大切にしたのです。
しかし、人類が木星に移り住む計画ならば意味がありますが、地球上に生きている限り地球の時間や季節の周期は地球と太陽との関係で決まるべきであって、よその星が何年周期で太陽を回っているかは、地球上の時間計算に、12年周期は何の関係もないのです。
ところが、木星の発見で自信を得た中国では、タマタマ1年の間に月が約12回回転すると言う偶然にしか過ぎないのに、年数も12支(12周期)で表すようになります。
ですから、こののちに書く機会があれば書きますが、12年周期を基本にした運勢や厄年などの考え方は、我々が将来木星に移住したときに役に立つ考えでしかない筈です。ですから、当面地球上から引っ越す予定のない現在の我々には意味がないのです。
ましてや、申年生まれや酉年生まれなどはマルデ関係がないのですが、こんなことは誰でも知っていることでしょうから、この問題はこの位にします。
以後グレゴリオ暦採用までは、この紀年法・・例えば甲子何年、丙午(いわゆるひのえうまの年です)何年という表記で連綿と続けて来たのです。
後世になると古代からの連続した10干12支の繰り返しだけでは分かり難いので、基礎になっている古代から連続する10干12支の上に、漢の武帝のときから元号制が始まります。
元号制は、支配者のみが人民の時間を管理、支配すると言う考えに基づいて、紀元を決めていく思想ですが、紀年法だけでは長期間の時期特定が困難になるという実際的な必要性あったからでしょう。
実際、元号制を始めた武帝のときに有名な歴史書である「史記」が司馬遷によって編纂されているのです。
帝王のみがすることができる時間支配の点は、後に明治の改暦に関して詳述します。
その元号を起点に、例えば武帝の建元元年、建元2年、建元3年と言い、日本では天平勝宝何年、文久元年、文久2年などと言うようになり、時代が下ると月や日は日常的には単なる数字1月2月などとで表すようになりますが、それでも正式な紀年法では、10干12支の組み合わせを古代から貫いて表記していました。
(日本も新暦まではそうでした・・壬申の乱、中国では戊戌の政変など)
「去年(こぞ)今年(ことし)貫く棒のようなもの」(虚子)
と言う存在でした。
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