01/12/08

7サイクルの残存と通商の途絶1(10干12支と改元)

わが国も、西洋近代科学を学んで最後は最先端の航空母艦や世界最大の戦艦大和を作り、ゼロ式戦闘機を作りだすなど、先端に到達しつつあった・・部分的には欧米を追い抜きつつあったのですが、日米開戦直前から欧米と手切れとなって技術交流が無くなるとその先が続きませんでした。

日米開戦後アメリカでは、続々と新しい技術が生まれていくのに対し、日本は既存技術を工夫するのがやっとで、アメりカにどんどん差をつけられて行き、その最初の結果が出たのがミッドウエー沖海戦でした。

あるいは、ドイツへ留学した学者がその当時、新進の学者が提唱したばかりの新説を勉強して日本に帰って、以後これを「今ドイツではこうだ」と金科玉条のごとく主張する事例があります。

ところがその後肝心のドイツでは、その新説の欠陥がいろいろわかって、その説を支持する学者がいなくなり、肝腎の提唱者自身が引っ込めているというのに、・・・・と言う次第です。

中国で惑星を重視した五行説が廃れずに、逆に陰陽+五行説として確立してしまったのは、中東地域からの学術文化の流入が途絶えた後の結果であって、日本によくある上記事例と同じようなことだったのではないでしょうか?

インドでは、死後の世界のサイクルとして残ります。

死後7日ごとに繰り返す法要の考え方は、元々インドの仏教成立前からあった考えか、わが国や中国で葬式仏教になってから営業目的でその後付け加えたものなのか、私には、今のところ分からないというだけですが、もしもインドの仏教成立前からあったとしたら・・の話です。

その後何時からか私にははっきりしませんが、中国では12の基本名称も生み出され、後世これを12支というようになったのです。

ちなみに干支とは、10干も12支もどちらも紀日紀月紀年の基本になる「幹」でしたが、10幹を干と言うようになりその組み合わせでの区別のために後からできた?12の方を支というようになったらしいのです。

他方で、そのころには1年が原則12ヶ月であることが知られていましたから、冬至のあった11月を子月、12月を丑、1月を寅とし、以下10月の亥月まで順次名称がついていたのです。

時間も午前零時=子の刻から始まることは、明治の改暦まで使われていた呼称であって、わが国でも良く知られたとおりです。

と言うことは、この当時から中国でも冬至が理論的には一年の最後・最初であったことが知られていたのでしょう。

1日では午前零時が最初であって、午前2時ではなかったのです。

ローマでもそうですが、紀元前から太陽暦の理論的正しさがわかっていて、太陰太陽暦になっていたのですが、10干12支もその前提で組み立てられているのです。

元々今回の正月テーマは、冬至を1年の終わり・翌日を1月1日に何故しなかったか?の疑問から始まっているものです。

上記はもちろん旧暦のことですから、新暦の1月は寅月になる勘定です。

 

 



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