01/05/08

わが国の暦の歴史1(輸入暦とその以前)

現在の経済活動から見れば、明治の改暦は大英断と言うか無茶苦茶なことになっていたはずですが、だからこそ世界中で太陽暦が合理的だと分かっていても長い間グレゴリオ太陽暦への切り替えが簡単に出来なかったのでしょう。

この改暦で不自由な目に遭ったのは、日々の収入や勤労所得に頼る階層だけで、年に1回しか収入のない農民と政府にはそれほどの関係のない制度改正でしたから、農民中心社会の内に改暦しておいたのは大成功でした。

ただし、農民でもいろんな約束事がありますから、勤労者や商人ほどの影響がないと言うだけです。

大隈重信が、この奇策で財政難を逆に乗り切ったというのですから、(今なら少なくともクビと引き換え・・辞職ものです)当時の政府の信用といっても暴力団が日本中を支配していて威張っているのとあまり変らなかったでしょう。

閏月に改暦したので、政府の利益は、大きかったのですが、その分社会の混乱は大きかったのです。

閏月で無い一番変化の少ない、混乱を避けて改暦するのが本来の王道でしょうが、日本では1ヶ月へって、しかも12月の3日を1月1日にして、約2ヶ月も短縮してしまったのですから、大変な混乱になったはずです。

(これが1年前から予告があれば国民も対応できたでしょうが、イキナリの改暦でしたから、予め約束事をそれにあわせて修正しておく暇がなかったのです。)

この辺で、わが国が暦を使い始めた歴史を概観しますと、欽明天皇の554年ころに百済から、中国古代からの暦法・・太陰暦に基礎を置く太陰太陽暦が輸入されたのが最初とされています。

では、その前には時間の観念がなかったのかということですが、太古のローマ暦同様に、それなりに1年の始まりが意識されて、農作業に従事していたのは間違いがないでしょう。

(ここからは、いつものとおり私の意見です)

何しろ、稲作農業は、縄文時代から平行して始まっていたのですから、そのための暦がなければうまく行きません。

あるいは軍事でもそうですが、兵の招集や戦略をたてるにも一定の時間観念が絶対に必要ですから、原始的な時間の決め方は、その昔から当然発達していたはずです。

ちなみに、歴博(国立歴史博物館)の藤尾氏の研究論文では、稲作は前7世紀には、畿内方面に及んでいたようです。

この論文のときに弥生文化は500年早かったと言う報道がされていましたが、・・・そのころ私のコラムでもちょっと書きました・・ここでは500年の差が問題ではなく、いずれにせよ農作業開始のためには月の変化や気候変動の動き・・時間軸の理解がないと順次の作業手順が組めなかったはずという意味です。

 



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