01/16/07
紙幣と国債(藩札)
江戸時代に発達した藩札も、金の裏づけがない点では、国債に似たようなものでしたが、これは今で言う地域通貨と言うもので、幕府の発行する金貨や銀貨との交換を、一応前提とするものでしたから、ファンドでは有りません。
藩と言う言葉は明治維新直後に出来たものですから、藩札と言う言葉も明治に出来た太政官札に対する意味だったのでしょう。
藩と言う公式名称の出来た由来については、07/19/05「藩の始まり(政体書)1」以下で連載しました。
他方で、藩札は、金の直接の裏づけがないのですが、今の銀行が預金残高同額のお金をその支店に保有していなくとも、ほんの少し用意しておけば預金の出し入れに間に合うのと同様に、いくらかの幕府発行小判など用意して置けばよかったのでしょう。
藩(正確には大名家です)では、藩札発行分全額の金貨(小判など)を保有していなくとも、その何倍も流通させていて、両替に来る人だけに金貨(小判)と替えてやって、他方で藩札で金貨を一定額回収していれば、いわゆる取り付け騒ぎにはならないのです。
幕府発行の金貨そのまま使うのでは、重たいと言うか不便なので、その両替屋的機能を果たしていたともいえるでしょう。(今の地銀みたいな機能です)
しかし、その大名家がもしも取り潰し・・・倒産になると、取り付け騒ぎになる・・・全面的にアウトだったので大変な事態でした。
忠臣蔵の浅野家が取り潰しになったときに、城代家老の大石良雄の采配で、藩札の買戻し率が6割に達したことで、後世の評価・・領民の支持が高まったとも言われます。
これが、現在に繋がる赤穂浪士人気の経済的源泉だったのです。
(歌舞伎その他のせいだけではなく、人心と言っても結構、セコイものです。)
当時の藩札の流通相場と言うかイザというときの返還率は、4割と言われていましたので、倒産・・お家廃絶しながらでも、6割の返還とはかなりの高率だったのです。
明治政府になって、太政官札(従来の藩札みたいなものを、太政官政府自身が発行したものです)から、始って円制度に切り替え(1871年)・・さらに日銀が出来て(1882年)日銀券の発行、貨幣法(明治30年)に落ち着くまで、いろいろ変遷します。
明治の貨幣制度が出来たときには、まさか日本中の各藩で出していた藩札を全面無効にすると大混乱でしょうから、藩札との交換比率についてもそれなりに手当てしていた筈ですが、この辺の手続がどうなったかについて、そのうち機会があれば当時の条文を紹介しましょう。
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