01/11/07
世界平和15(戦争の原因11・・賠償金3)日清戦争1
こうして、先ずは、国内諸勢力の改変・・戦国時代がおこり、これの国内統一が成ると、今度は古来の国境を越えて一定の会戦を行なえるようになって来ます。
それでも対外戦では、勝敗が決着しても、まだそのまま占領し続けられるほど、その他の条件が熟していなかったのです。
そこで、その落差を埋めるために、勝敗が決着した時点で講和会議が開催されて、何がしかの戦利品・賠償金を獲得して帰る仕組みが発達したのでした。
そのうえに、西洋でも騎士の時代には、日本の武士と同様に手弁当、自費出兵が原則でした。
勿論、モンゴルも同様でした。
ところが、西洋では、時代が下ってくるに連れて、騎士が零落していき、傭兵の時代になって来たのです。
日本では守護大名に代わって戦国大名に入れ替わって行ったのですが、西洋では、傭兵・・ならず者のままでした。
中央集権化し易い地形であったことから、ドイツを除いて大名クラス不要の社会になっていたのでしょう。
そうなると、例えば下請け業者が、半年先の手形を元請から貰っても、自分の下職・現場労務者に対しては、その月の内に日給や月給を払わねばならないのと同じで、資金繰りが苦しくなるのです。
例えば、何とかの会戦で勝って、100の面積を占領したとしても、そこからの年貢の上がりで、かかってしまった戦費を賄うには何年、何十年も要しますが、それでは傭兵に給料や報酬を払えません。
何しろ、占領軍が敵地を直接統治するのは効率が悪いので、利益を上げるようになるかどうかも分らないのです。
そこで、占領地の何割あるいは全部を返してやる代わりに、戦費の負担金として相手から賠償金(買い戻し費用)を取れれば、当座の資金手当てがつくと言う仕組みでした。
ここで、ちょっと話がずれますが、中国では、昔から皇帝直属軍で、地方豪族が自分の手勢を率いて参戦すると言う仕組みではなかったのです。
こうしたことから、有名な高官でも、その子孫の没落はあっという間でした。
こうした事情は、12/08/05「科挙試験12(会試)と律令体制1」前後や律令制の紹介や、杜甫などの紹介で、既に書きました。
ただし、皇帝直属軍形式は、律令制の元祖である西晋のころから始まるものではなく、法家の商鞅が失脚したときの事例でも分かるように、戦国時代からあるように思えます。
何故、世界中で中国だけが一族郎等を中心とする主従関係の発達がなく、古代のまま19世紀まで来たのか興味のあるところですが、そのうち機会があれば、別に考察・得意の妄想をしてみたいと思います。
ここでは簡単に思いつきを書いておきますと、農地の個人所有が発達せずに、いつまでも農民は古代のまま・・・労働者的だったからではないでしょうか?
じゃあ、何故農地の個人所有が発達しなかったのか?と言う事になりますが、漢民族・・・灌漑の集団性に関係があったかもしれませんが、そうした長いコラムは別に書くことにしましょう。
こうした歴史が、共産党政権下での集団農場・・人民公社化に割り合いにスムースに移行できた要因でもあったことを、03/15/06「中華人民共和国の成立3(農民の後進性)」で書いた事があります。
中国では、豪族が手勢を率いて参戦する仕組みではなかったのですが、上記のように傭兵でもなかったのです。
個人が発達して、徴兵できなくて傭兵になったのではなく、古代の奴婢的徴兵制のまま19世紀末まで来たのです。
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