01/08/07
世界平和8(戦争の原因2・・武士の戦争2)北相馬郡
この理は日本の戦国大名と家臣(上級武士層)の関係とその他の被支配者との関係でも同様です。
戦国時代以前でも、源平騒乱時代に千葉の豪族千葉氏は、頼朝に従い、奥州藤原氏の征伐に参戦しますが、その功績で、福島県の相馬郡を領地として獲得しています。
ちなみに、それまでの源平騒乱は内部のヘゲモニー争いでしたが、奥州平泉の制圧は、古代から続いた大和朝廷による農業社会の東漸作用が、このとき東北地方まで完結した行為と見るべきでしょう。
以後、大規模な蝦夷征伐はなくなるのですが、このときころから、逆に征夷大将軍の呼称が重要になるのですから、歴史の皮肉です。
征夷大将軍の呼称については、03/13/04「幕府とは?4(征夷大将軍)」その他で書いています。
話を飛び地獲得に戻しますと、飛び地を獲得しても、千葉で食えるだけの農地を持っている農民には、関係がなかったでしょう。
両方の領主になった千葉氏が、年貢を両方から取れるようになっただけです。
あるいは、その家老や一族がその地の管理者として派遣されるので、少し良い思いをしただけでしょう。
ちなみに、相馬追い歌で有名な福島県相馬と言う地名は、もともと千葉氏が必死に領有を争っていた千葉と茨城の境界付近の相馬御厨(みくりや)の名称です。
千葉市にとっては、象徴的な地名を新たな領地・・荘園の名称にしたのではないでしょうか?
今でも茨城県には、取手市と龍ヶ崎市の間に北相馬郡と言う地名が残っています。
北相馬郡と言うからには、南相馬郡または、本拠となる相馬郡があったのでしょうが、その南側・・・利根川の対岸・・千葉県側には、そういう地名は見当たりません。
相次ぐ市町村合併の結果、郡の表示がなくなってしまったのでしょうか?
明治以降の行政区画の決定で、下総の国の一部が茨城県になってしまったのでややこしいのですが、この辺はもとは下総の国だったのでしょう。
明治になって、神奈川と東京の境は多摩川、埼玉と東京の境は荒川、千葉と東京の境は江戸川、千葉と茨城の境は利根川、埼玉と栃木の境は鬼怒川など大きな川で分ける、地図上の分かりやすさが基準となってきました。
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