01/26/06
ついでに、唐代の名門貴族と言うものを概観しておきますと、北魏から北周、隋から唐へと王朝が続くのですが、隋の初代文帝(陽堅)と唐の創立者李淵とは、同じ北周皇帝の外戚の血筋で従兄弟同士でした。
隋から唐へ王朝が変わったといっても、隋の宮廷貴族らにとっては、同じ主人筋のトップ交替でしかなかったのです。
漢の王莽も唐の則天武后も、実権を握っていたのにそれ以上に敢えて、簒奪者の汚名を着てまで、別の国号を立てる必要性が中々分かり難いものです。
(勿論、私が知らないだけと言う意味で、学者は当然研究しているでしょう。)
これを革新的政策の実行者であったから、旧勢力をきっぱり根こそぎ始末するためにやったことと見れば結構分かりよいのです。
漢の王莽も革新的な政策を、次々と実践していたのですが、簒奪者と言うことで闇に葬られているだけではないでしょうか。
政権簒奪と言うことで、則天武后は歴史上悪く言われますが、実はこの時代に、いろんな方面で実績を残しているのです。
則天武后の孫の玄宗皇帝が、世界に冠たる開元の治を現出し、盛唐といわれる華やかな文化の花を開かせることが出来たのは、則天武后の時代に種まきがあったからでした。
後にも紹介しますが、杜甫の祖父の杜審言が頭角をあらわし、ひいてはその孫の杜甫が歴史に残る大詩人になれたのは、則天武后のサロンがあったからでした。
則天武后の政権が倒れて、中宗の時代になると沈せん期らと共に、宮廷詩人グループは嶺南の地に流されるですが、その時のいろんな漢詩についても、後に追々紹介するつもりです。
こうした急進的革新路線であった、武則天に対する旧勢力の支持を受けた巻き返し(今で言えば抵抗勢力です)が、中宗のクーデターの本質であり、李隆基の再クーデターは、もう一度開明派の巻き返しだったと言えるのです。
玄宗の政権は、そうした性格を持った政権でしたから、隋朝から続く名門貴族の発言力を抑え、科挙制による優秀官僚登用中心の人事政策、内政では名門の地盤・足もとを脅かす、班田制・・農地の国有化がいよいよ推し進められていくことになるのです。
開元とはまさに元(はじめて)開くと言う意味ですから、開明政治の元年と言う意味だったのでしょう。
こうした元の用法は、最近でも、インターネット元年、個人情報保護元年とかいろいろ使われています。
話が大分横に行きましたが、皇帝や王様のやるべき仕事の有無と言うテーマに戻しますと、このように玄宗皇帝の就任直後は、するべき政治が山積していたので、頑張れたのです。
ところが、玄宗皇帝は在位期間が長すぎたので、後半は、前半に成功した政治の矛盾が起きてきても、(普通、同じ人間では駄目です)どうすることも出来なくなったのが、彼の失敗の原因でした。
この点・・・治世の長期化の弊と生前退位制の必要性については、明日のコラムで書きましょう。
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