01/26/06
政権の簒奪者とは?則天武后の最後から、李隆基のクーデターに至るまで、血なまぐさい政争を経て、ようやく政権が転がり込んで来たのが玄宗の政権であり、開元の治の基礎になったのです。
クーデターが710年で、その2年後の712年に玄宗皇帝は、父・睿宗に次いで皇帝に就任した(712年)のですから、就任当初はやるべき政策課題が山積していたでしょう。
もうちょっと詳しく書きますと、則天武后は家柄もそれ程でなかったのに、政権簒奪までしてしまったのですから、当然隋以来の重臣・・唐王朝につながる名門貴族らの応援がありません。
そこで、隋から始まって、唐王朝でも太宗以来取り入れていた科挙制や律令制の確立に熱を入れ、生れ始めていた科挙による中堅優秀官僚の抜擢に意を用い、旧来勢力・・・名門貴族の駆逐に意を注いでいたのです。
或いは、逆から考えると、則天武后が政治に手をだして本気でやっていくと、名門貴族・・既得権益層が邪魔になったのですが、これを積極的に排除していくためには、唐王朝のままではどうにもならないところから、新たな武周国を建国したのかもしれません。
(女性が政治を遣り出したら、本気に一直線に進むことが多いのです。・・女性に対する偏見とも言えますが、今までのところ女性の政治経験が乏しかっただけの話でしょう)
別の国号にすれば、隋以来の名門貴族は、皇帝の一族ではなくなるので、無能なら排除しやすいからです。
名門貴族の支持を受けられなかったからでなく、名門排除を徹底的にやったから、その抵抗も熾烈になっていたといえるかもしれません。
日本では、似たような効果を出すためには、しがらみを断ち切るために遷都と言うやり方が流行ったのをイメージすればいいでしょう。
日本では、朝廷に影響を持つ勢力が特定の土地に関係があったので、その土地を離れるために都を移転することが大きな政治的影響を持ったからです。
遷都は、政争の結果だったのです。
平安京になってからは、一寸した勢力争いでは動けないほど規模が大きくなりましたから、都の中で、源平が、玉座の移転・確保にしのぎを削ったのが保元平治の乱でした。
清盛の福原遷都は、事態打開のために、思い切った政治の断行を求めた結果、失敗しただけではないでしょうか?
現在の遷都論は何を打開するために、遷都するのでしょうか?
もしかしたら、増えすぎた首都の人口を振り切って、首都圏の人民のしがらみを断ち切る?ために遷都するのかな?
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