01/25/06

大化の改新2(存否)

話を戻しますと、中大兄の即位までの流れは、玄宗がさしあたり、父を皇帝に就任させてから2年後に自分が皇帝になったのと同じやり方ですし、「中の」大兄と言う名称からわかるように、玄宗同様に彼も長男ではなかったのです。
(古人の皇子と言う長男がいて、出家して吉野に逃れます)
何となく李隆基の政権奪取と皇帝になるまでの流れと中大兄とは、似た経過ですが、日本の方が60年ほど早い事件ですので、後から起きた中国の事件を持って来て創作したとは、一見考え難いのです。
ただし、日本に本当にあった似たような話に、中国の事件を持って来て、(脚色して)完成させた可能性がないとは言えません。
ちなみに、養老律令は718年、日本書紀は、720年(元正天皇の養老4年)撰上されたと言われています。
このころにやっと、律令体制が形をなし、藤原氏の天下掌握も完成に近づいた所で、彼らに都合よい日本書記が作られただけのことではないでしょうか。
一方古事記については、和銅五年(712)正月二十八日に、元明天皇に献上されたと古事記に記載されているので、日本書紀よりも早いことになるのですが、その存在自体疑う学説もあります。
古事記は存在はしているのでしょうが、漢字の使い方が、万葉仮名と違い、後世に伝わった漢文形式の熟語が多用されているいるなどの点がおかしいので、平安時代になって誰かが、太安万侶の名前を借りて創作したものではないかと言うだけです。
大分前に、そうした論説を読んだことがあるのですが、具体的な文字などは忘れてしまいました。
(ここで言いたいのは、日本書紀よりもホントはずっと(100年単位)後の作品でないかと言うだけです)
いずれにせよ、日本書紀が出来た(720年)ころには、中国の政変(則天武后の死亡は705年、李隆基のク・デターは710年です)は大事件でしたから、既に日本では知られていた可能性があるのです。
このように歴史と言うものは、疑問に思い出すと、きりがなくて、学校で習った大化の改新って本当にあったの?というところまで行き着くのですから、素人のコラムは怖いですよ。
これまで見てきたように、防人の制度も白村江の敗戦(663年)の直後から始ったものでしたし、律令制の定着も徐々にやってきたものです。
645年ころに「大化の改新」と言うほど目覚しいものは、「なにをやったの?」と言うところです。
そう言う目で見てみると、学校で習った「大化の改新」の詔に書いている言語は、実はかなり後から出来た制度ばかりであって、しかも、書かれている用語自体、そのころは別の言い方がされていて、そのころにはまだなかったことも分かっています。
こうしたことから、後世の作り物偽装である可能性のほうが高いと言う意見もあるようです。
そもそも「大化の改新」があったなどは、古来から誰も問題にしていなかったのに、幕末ころに紀州家の陸奥何とか(明治になってから、不平等条約改定交渉で有名な陸奥宗光の祖父らしいです)と言う人が、いきなり言い出したことにより、広まっただけの話と言うことで、出所来歴からして怪しいのです。
何故、このようなでっち上げ人物像を、明治政府が一生懸命に学校で教育して来たのか?戦後も無批判に踏襲しているのか?その政治的意味を問い直さねばならないでしょう。
私などは、全く騙されて育ったのです。
(今のところ真偽不明なら不明のような、教え方があろうと言うものですし、真偽不明ならそもそも学校で教えるべきではないでしょう。)
韓国や中国の歴史教科書は、自分の都合ばかり書いていることを、馬鹿にばかりしていられれません。



関連ページリンク

Powered by msearch
稲垣法律事務所:コラム:検索

検索ベースはこちらから

 


コラムTOP

リンクを当コラムにはられる方はお読み下さい

©2002, 2003, 2004, 2005, 2006 稲垣法律事務所 ©弁護士 稲垣総一郎
Design / Maintained by Pear Computing LLC



ブログ
株式投資
powered by CLICKTX