01/25/06
こうして李隆基(後の玄宗皇帝)は、クーデターに成功し、武則天の傀儡皇帝だった自分の父で睿宗・・・一旦廃帝されて今度は則天武后の建国した周国の皇太子になっていた・・・父を再び皇帝位に復活させます。
この功績で、睿宗が傀儡帝であったときに名目だけですが、皇太子になっていた兄が弟の李隆基に皇太子の位を譲り、晴れて李隆基が正式な皇太子になるのです。
ちなみに、2代皇帝太宗(李世民)も、ご承知のとおり長男では有りませんでしたが・・玄武門の変で政権を実力でもぎ取ったのですが、玄宗の兄李憲(成器)は、賢明にも弟の方が優秀と見て自ら譲ったので、政争が起きませんでした。
この恩義を感じた玄宗は、最後まで兄に対して敬意を表していたと言われます。
こうして、わずか2年後の712年には自ら即位するのですが、話がかなり飛びますが、玄宗と似た形で頭角をあらわしたと言われるのは、日本の中大兄皇子(天智天皇)でした。
蹴鞠の宴の謀議・・・皇極天皇4年(645年)6月12日、飛鳥板蓋宮でのクーデ・ターで蘇我氏を滅ぼして大王家(天皇家)に実権を取り戻してから、成し遂げた大化の改新までの話も、どこか玄宗の活躍に似ています。
以下、少し私の突飛な関心に基づいて、ちょいと見ておきましょう。
中の大兄皇子と蘇我氏の争いも、実は、大王家に実権を回復するかどうかではなく、蘇我氏の革新的な政策に対する保守系からの巻き返し、路線争いが背景にあったと言われます。
保守系豪族が、皇極天皇の弟である軽の皇子の周辺に集まっていたのです。
ちなみに、日本の中大兄皇子のクーデターは、凡庸と言われた軽皇子(孝徳天皇)を担いでやった事件で、この事件の結果母の皇極天皇は退位してしまいます。
そこで中大兄は自分が直ぐに即位せずに、凡庸な軽皇子(孝徳天皇)即位させ、自分は皇太子して実権を握るのです。
孝徳天皇は、645年6月14日即位、白雉5年(654年)10月10日に死亡しますが、死亡しても中大兄は自分で即位せずに、さらに、その後を一旦退位した母を斎明天皇として「重祚」させて再び天皇とします。
この母、斎明が死亡して、ついに自ら即位(668年)して天智天皇となるのです。
ちなみに、このコラムでは面倒なので、後世の言い方に従って、幸徳天皇とか斎明、天智とかの天皇号で書いていますが、当時は、天皇と言う呼称はありません。
後に天皇と言うようになってからでも、例えば桓武天皇とか聖武天皇と言うのは、贈り名=死後に送られる「諡号」であって生前の名前では有りません。
例えば軽の皇子の本名は、「天万豊日天皇(あめよろずとよひのすめらみこと)」と言い、皇極天皇は天豊財重日足姫天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと)と言います。
この点は、中国でも同じで、玄宗皇帝とか武帝、文帝などは、皆死後の「諡号」であって生存中に玄宗などと呼ばれたことは有りません。
名前が長すぎて、どうにもならないのでこのコラムでは、これまで簡略に書いているだけですので、「そのころは玄宗とは言わなかった筈と言う意見をお持ちの読者がいらっしゃるでしょうが、その辺を前提に、御読みくださるようにお願いします。
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