01/24/06
太宗の活躍は、孫悟空で有名な西遊記の冒頭を飾る話でも知られている所ですし、その他にも唐王朝創設の武勇伝などで有名ですから、今回は、玄宗が頭角をあらわした原因となった則天武后の話から、見ておきましょう。
則天武后(正式には武則天)に唐王朝を乗っ取られていたのを、中宗とその取り巻きが取り戻した唐朝でしたが、皇帝に帰り咲いた中宗の皇后韋后は、則天武后同様に同じく天下乗っ取りを策していたと言われます。
最もこの話は、玄宗が天下をとってからの話ですから、真相はわかりません。
見方によれば、玄宗は則天武后の子・睿宗の子で、則天武后の孫に当たるのですから、中宗のク・デターで則天武后が死亡直前に政権を中宗に奪取されたのを快く思っておらず、反革命を成功させただけともいえるのです。
則天武后が、武周を建国したと言っても、結局は世継ぎとしてわが子である睿宗を皇太子に指名していたのですから、中宗のクーデターがなければ、皇帝の系統が玄宗の親である睿宗の家系に来るべきでした。
このまま座視していると、皇帝の家系が中宗の家系に移ってしまったままになるのですから、玄宗ら一族にとっては死活問題であったでしょう。
中宗死後に、玄宗の従兄弟で皇太子であった李重俊のクー・デターを計画しますが、事前発覚で失敗してしまうのです。
玄宗は(当時は李隆基と言う皇子の1人でした)が太平公主・・・則天武后の娘の1人・・・と組んで入念な計画のもとにクーデターを起して大成功して、韋后一族の皆殺しに成功するのです。
玄宗のクー・デターは、則天武后の系列だけでなく、その政治・・政策の復活であったともいえるのです。
開元の治で、玄宗の右腕となって活躍した宰相の李林甫などはすべて、則天武后が抜擢した官僚であったことを想起してもいいでしょう。
彼は則天武后の改革の果実を手に入れて、開元の治を実現できたし、文芸の花も咲かせることが出来たのです。
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