01/19/06
公序良俗違反の事例については、追って書くことにして、明治になって、国の決め事を「格」や「律」から「法」に変えた1月18日・・・・・・1「法と律と格の違い1」の続きに戻します。
日本では、[法]と[法律]を読み分けていて、「法」は、宗教的と言うか道徳的あるいは、人間の本然の心に合致した真に正しいものを意味し、法「律」は、形式的に国会や、権力者が決めただけで、必ずしも正義とは限らないと言う意味で使い分けられているのです。
我々弁護士もそうですが、形式的法律には合致していても実質不当な場合、その救済を求めて裁判をするのですが、裁判所もその期待に応えて実質で判断するのが日本の司法です。
公害訴訟、消費者問題その他先進的判例はすべて、当時の法規制に合致していたものの、結果として公害被害者が出て来た場合の救済を求めて発達し、その後追いで各種規制法が発達して来たのです。
私は、7〜8年前に日照被害の事件を担当したことがありますが、相手方業者の方は、
「何故法律を守って建てているのに、裁判所が損害賠償を命ずるのだ」
と言う論法で、
「これでは法治国家ではない、マスコミに訴えたい」
と息巻いていたことがありました。
「法律をいくら守っていても、ヒトの日照を妨害するのは、限度を超えたら許されないんだよ」
と説明しても、なかなか理解できない様子でした。
そのうち相手も弁護士が出て来たので、やっと普通の話になったのです。
こうした違いは、弁護士あるいは法律家であれば直ぐに分かるのですが、素人の方々は法律に書いてあれば、その結果が正義に反しようが何であろうが、万能的発想をする人が多いのです。
(もしかして中国系の子孫かな?)
何故、法に律が付くと、そう言う形式的解釈になるかと言うと、韓非子以来の中国では、律は専制君主が(恣意的に?)命ずれば、それがそのまま律または令であり、官僚はこれを実施する役割、人民がこれに従う役割と決まったまま、「漢承秦制」の思想で辛亥革命(1911年)まで来たからです。
わが国で「律」と言えば、仏教では戒律、ユダヤ教では律法者(パリサイ人)などなど、外部からの強制的ルールに歯を食いしばって従うという意味合いの強い場合にわが国では使われます。
戒律から、律令、軍律となって、自主的に守らねばならない道徳的意味合いが少しづつ弱くなって来たのです。
日本では、昔から下克上社会で、いつも階級が入れ替わっていますので、中国のような階級による固定化した精神が育たなかったのでしょう。
その結果、法(ルール)は国民みんなの納得する・・・宗教的にも正しいものでなければならず、悪法でもなんでも権力者が決めれば、守るべきだという法感情が育ちません。
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