01/17/06

最後班田醍醐天皇

やっと開墾が終わっても、土地が痩せているうえに、米の種まきから収穫までの期間を考えればいいでしょうが・・品種改良以前ですから、当然今のように早く収穫出来ません。
ただし、このころは、水辺の沼地や谷津田に近いところがまだ一杯残っていて、開墾と言ってもこれのちょっとした整備で足りた可能性の方が大きかったかも知れません。
それならそれで、昨日のコラムで書いたように条里制などは物理的に不可能です。
(何せ、日本は人の住めるところが広いのです。)
いずれにせよ、この間の生活の面倒を誰が見るの?ということです。
こうして口分田に関係ない土地が増えて行くのですが、他方でこうした開発に従事するために荘園で雇われて働く人も増えてきます。
公地を耕すべき耕作民が、こうして私的荘園に繰り入れられる一方でした。
土地よりも重要なのは、人の確保だったでしょう。
現在でも企業存廃の決め手は、人材の確保にあるのです。
いくら先端産業でも従業員がいなくては、企業は成り立ちません。
公地公民制度下で、このように新田開発する豪族が存在し得たのは、01/13/06「三世一身法と長屋王の失脚」までのコラムで書いたとおり、律令体制完成時とされる時期でも、公有地ばかりになったのではなく、公有地私有地並存制だったからです。
奈良時代最末期になると、浮浪・逃亡する百姓の増加やそうした百姓を初期荘園が受け入れたことを背景として、次第に弛緩し始めたと言われています。
(これは一般の解説の流用で私の意見では有りません。)
そのため、桓武天皇は、6年1班を12年1班に改め、班田収授の維持を図ったのですが、田地の不足、班田手続きの煩雑さ、偽籍の増加等によりうまくいかず、次第にうやむやになりつつありました。
こうして、平安時代初期には班田収授が実施されなくなっていたのですが、かなり後になって、902年(延喜2)、醍醐天皇( 885〜930)により班田が行われたのが最後の班田となったのです。
醍醐天皇については、その治世下で、紀貫之に古今和歌集が撰集させたり、百姓を大切にし,奢侈をいましめ,政務に励み、班田の励行と荘園整理令の発布と相まって、「延喜の治」として理想化され、後醍醐天皇が崇敬したことでも、知られています。
他方で、903年(延喜3)左大臣時平の讒言によって,菅原道真を太宰権師に左遷し、藤原氏が壟断する道を開くこととなったことでも有名です。
ちなみに山科にある醍醐寺は、この醍醐天皇の勅願寺で、これにちなんで醍醐天皇の醍醐は、死後追号された号です。
醍醐寺(下醍醐)には、1昨年の秋に言ってきましたが、山に抱かれて落ち着いたとてもいい所です。



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