01/13/06

三世一身法長屋王失脚

江戸時代には、逃げた先で受け入れてくれる大地主がなくなったので、不満な農民側は、「逃散するぞ!するぞ!」と脅すくらいしか出来なくなったころに1750年の禁令となるのです。
こうした脅しで交渉するしかなくなったこと自体からも、簡単に逃げていく土地がなかった時代が来ていたことが分かります。
奈良時代に戻しますと、このようにして、農民に逃げられて、税を納める公民が減る一方ですから、一定収入を確保するためには、増税しかなかったでしょうが、残った公民に課税を強化すれば、いよいよ逃げる者が増えるしで、制度的に行き詰まっていたのです。
この打開には私有の荘園を根こそぎなくすしかなかったでしょうが、政府には、そこまでの力がなかったのです。
一番豪族の弱っていたころでも、全部の荘園を取り上げられなくて、低級の農地だけしか国有に買い上げ?できなかったのです。
その後に、豪族が力を持ってきたならば、全部の荘園を取り上げればよかっただろうと言うのは、今の発想でしかなく、当時はそんなことは出来る筈がなかったのです。
律令制と言っても、荘園制と公地公民制の2本立てで来たところが、次第に荘園領主の方が成功していき、荘園領主に力負けしてしまったというところです。
中国の共産主義制度と言っても、改革解放前にも資本家と同居していたのですが、これと同じでしょう。
桓武天皇は、事態打開のために対蝦夷戦争をしますが、戦争しても国家財政が苦しくなるだけで、大した人的被害もありませんし、(以前書いたように陸戦の場合、兵の1割も死ねば大変な事態です)なんと言うことはなかったのです。
国家の威信は上げたでしょうが、財政が傷ついただけで、かえって豪族の相対的地位が上昇していくのです。
班田収授の運命を見ておきますと、722年(養老6年)に当時の全農地が100万町歩しかなかったと言うのに、倍増に当たる100万町歩と言う途方もない開墾計画が建てられます。
三世一身法はこの計画実施のための新法でした。
と言うことは、このときには既に耕作者不足でなく土地不足になっていたことが分るでしょう。
長屋王の失脚は、史上の大事件ですし、藤原4兄弟との抗争に敗れたと言う物語的な側面ばかり歴史上有名ですが、この遠大な開拓計画の失敗によるとも言われています。
あるいは、藤原氏が自己の正統性のために、後世作り上げられた話かもしれません。
この計画によって、翌養老7年4月17日三世一身法が施行 され、灌漑施設を含めて自分で開墾した場合は、3世まで私有が許されるれるとし、公地公民制の崩壊の先駆けになった制度であると言われています。



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