01/12/06
逃散に話を戻しますと、これが正式に禁止されるようになるのは、江戸時代の中期の終わりに近い1750年の「強訴・徒党・逃散の禁止」から整備されたに過ぎないそうです。(人の意見の受け売りです)
前回までのコラムで少し書きましたが、江戸時代中期以降は逃散して逃げて行く農地がなくなってきたこと、その受入先がなくなったことが、この禁令成立・・実効性担保の前提として大きな要素だったようです。
各地の新田開発が細って来たことだけでなく、江戸時代以降農業が集約農業化されてきて、逃げて来た人が荒地をアンチョコに耕して直ぐ農地として生産性を上げることが出来なくなって来た面も大きかったでしょう。
江戸時代以降の手間ひま掛ける農業に変化していったことについては、12/06/03「千葉の歴史4(千葉県人と海洋史観1)」以下で連載しました。
それまでは、逃げていけば、受入先があったので逃散が可能だったのですが、受入先もなくなってきたのでしょう。
この禁令の後でも、村の方から、これ以上の要求を郡代がするなら・・・あるいは、村の言い分を聞き入れないなら・・・凶作等による税の減免など・・・・村中で逃散すると言う切り札が有効な脅し・・・交渉材料になっていたそうですから、藩主や代官にとっては農民の逃散は伝統的に恐れられていたものであることが分かります。
逃散されてしまうとその村は消滅してしまいますので、土地だけ残っても年貢収入がなくなってしまいます。
そこで領主側は、農民の定着指導、思想的刷り込みに必死になっていたのが、江戸時代と言えるでしょう。
この定着思想の刷り込みをする以上は、農民の土地保有権についても慣習上最大の敬意を払うことになるのは、当然です。
母親に子育ての責任を押し付けるために母性愛を強調する以上は、親権争いでは母に絶対的な優位性を保障することになるのも同じことでしょう。
会社に忠誠を求めれば、他方で終身雇用を保証しなければならないのも同じです。
権利には義務が伴うと言うのが普通ですが、逆に義務を強制すれば当然それだけの権利も根付くのです。
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