01/10/06
現在日本では、少数野党の党是は「護憲」ですが、過去の掟にこだわる流れでみれば、根が同じです。
野党は政権交替を目指さずに抵抗政党である限り、革新を名乗ってはいても、内容的にはいつも超保守(100年、200年前に妥当していた慣習を持ち出す)になる宿命です。
たまたま、戦後憲法が日本の社会状況よりも進んでいたために、ちょっとの間護憲はすなわち先進的主張(野党=革新)であったのですが、社会が憲法を追い越していくと護憲は文字とおり保守でしかなくなるわけです。
護憲とは過去に出来た憲法を護ると言う主張ですから、文字とおり保守の主張です。
まだ保守のほうは、メンテナンスの意味ですから、じりじりとした修正変更(ある程度の進化)を含んでいますが、「護」憲とか「護」持となれば、外部からの攻勢に対して、頑なに抵抗する意味合いだけが強くなります。
公害反対、環境保護問題も同じで、棚田を護れ、里山保全などの主張は、煎じ詰めれば何百年前に耕作のために自然破壊して作った原風景を護れの主張に過ぎず、積極的と言うか前向きにこのように変えて行こうとする基礎が有りません。
この超保守の主張がたまたま、環境保全の今風の世論に周回遅れで、一致したに過ぎません。
話がそれすぎますので、農民の定着に戻しますと、1750年の禁令以前は、農民にとっては雇い主が気にいらなければ直ぐに他領(他の雇い主)へ逃散(転職)する社会だったのです。逃散と言うと難民のイメージですが、当時の転職は移転を伴っていたので、移転を中心に表現されているだけで、難民と言う意味では有りません。
そこで江戸時代には、居住移転の自由もなかったと言うわけで、職業選択、転職の自由と移転の自由は表裏の関係にあるのです。
ついでに逃散と言っても、一村全部で集団逃散する場合と、個人的に抜け出す場合の2とおりがあります。
江戸時代中期までは、逃散は農民側の正当な権利として認識されており、百姓が逃散した時、妻子を抑留することは、鎌倉幕府の1232年(貞永1年)8月10日の貞永式目(42条)で明白に禁じられ、これがずっと効力をもってきたのです。
御成敗式目の条文を紹介しましょう。
御成敗式目
第42条:「逃亡した農民の財産について」
「領内の農民が逃亡したからと言って、その妻子をつかまえ家財を奪うことをしてはならない。未納の年貢があるときはその不足分のみを払わせること。
また、残った家族がどこに住むかは彼らの自由にまかせること。」
制作・著作 前武蔵守平朝臣泰時・
以上の口語訳は、玉川学園多賀譲治(訳)からの引用です。
江戸時代でも家康が定めた1603(慶長8)年3月27日「諸国郷村掟」では、代官などの違法所為があったときには、一揆・逃散の権利性が認められていたのです。
その後の1649年の慶安御触書でも、一揆・逃散は明確には、禁じられなかったようで、村中こぞって他領に逃げられてしまい、その郡代が切腹を命じられたなど、逃散の事例がいくらもあるそうです。
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