01/10/06

農民逃散1(農民土地しがみつくものか?)抵抗論理

この辺で農民=労働者の逃散の流れを見ておきましょう。
現在の私たちは(私だけかもしれませんが)江戸時代中期以降逃散(ちょうさん)が禁止され、土地に縛り付けられ、へばりついている農民像が染み込んでいます。
いつも書くことですが、ホンの100年も続くと古来からある万代不易の制度・思想のように思うことが多いものです。
こうした習性については、05/27/05「日本人の米食信仰と配給制度2(現物給付の不合理)」などのコラムで鎖国制度や米食などの例で紹介してきました。
「農民は土地にしがみつくもの」と言う固定観念は、江戸時代も後期に近いころの逃散禁止令(1750年)で職業選択・居住移転の自由が縛られてからのことに過ぎないのですから、歴史が浅いのです。
今のように毎日のように国会で法律を量産している時代と違って、滅多に法令の出ない時代にわざわざ権力者が命令し、禁止したということは、それまで逃散が無視できないほど多くあった前提です。
禁止されただけで、それまでの習慣が直ちになくなり、直ちにあらたに習慣化するほど思想的に定着するものでは有りませんから、「農民は定着するもの」という固定観念が定着したのは、やっと明治時代からのことかもしれません。
むしろこの禁令を楯に、後に土地を取り上げようとする権力行動に対する抵抗の論理として叫ばれるようになったのでしょう。
ちなみに、抵抗者の論理と言うのは、殆どの場合、権力者の制定した古来からの法〔祖法)に違反していると言う主張の仕方が多いのです。
(幕末開国に対し、神君(家康)以来の祖法違反と言う攘夷論など・・)
、中間の悪役人に対し、より上位の権威〔天下の副将軍〕を持ってくる水戸黄門の論理と同じです。
01/26/04 「喧嘩両成敗法と生類憐れみ令1(忠臣蔵2)」のコラムで紹介した忠臣蔵の抵抗の論理は、中世以来妥当していた喧嘩両成敗法に反していると言うものでしたが、この両成敗法自体・権力者がその時代に合わせて確立していたに過ぎません。
忠臣蔵の時代には、既に権力が確立し、且つ裁判手続きも整備されていましたので、「理非を論ぜず両成敗する」アバウトな時代ではなくなっていたのです。
吉宗(大岡越前)が集大成した先例集である公事方御定め書きについては、12/16/03「公事方御定書1(刑法4)(江戸時代の裁判機構1)」以下飛び飛びですが10回以上?ほど連載しましたので、この熟語でサーチしてください。
5代将軍綱吉と8大将軍吉宗では、随分と時代が違うと思う方が多いでしょうが、赤穂浪士の討ち入りは、1702.12.14、第5代将軍綱吉の死亡は1709年で、8代吉宗の将軍就任は、1716年ですから、わずか6年しか間があいていないのです。
吉宗が先例集の編纂に着手できたと言うことは、綱吉のころには、先例かなり集積されていて、先例に従って判決できる時代になっていたのです。
(文字に残る先例だけでなく、担当役人のプロ化も進んで、事実認定ノウハウの蓄積も進んでいたでしょう。)



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