01/10/06
日本での公地公民制は、全国津々浦々にまで国有地など全くもっていなかった大和朝廷が、九州地方の人手不足と、豪族の経済的失敗に乗じて始めた制度でしたから、この臨時的な状況が終わってしまえば、公地公民制を支える裏づけがなくなるのは必然です。
立派な法典(大宝律令)が出来ると同時に、(あるいはその前から)潜脱行為が横行するようになっていたのは必然でしょう。
こんな短期間で駄目になった制度と言うのは、一回も根付かなかった・・・根付かせる努力が20年前後で放棄されたと言うことでしょう。
前記のとおり、男日照りの九州地方を対象に664年にはじまった防人制度ですが、日本中から男が支給されたので、大宝律令制定の701年まで40年弱も経てば、九州でも耕作者不在の土地がなくなっていたでしょう。
それやこれやで、防人制度もなし崩しに終わりますし、班田収受=公地公民制度は、完成したころには、いろんな角度から実施するに足る実態がなくなっていたのです。
いずれにせよ、8世紀末ごろになると、実効性が薄れてきた制度や実際に運用されなくなった制度が、見られるようになってきたのは間違いがなさそうです。
ところで、律令制を運用しようとすれば、膨大な財政的かつ人的な負担が重くのしかかっていきます。
折角国家的大事業として、710年に大規模に造営した平城京は、784年には廃都になります。
政治的な争いや思惑などが物語で語られますが、底流にはこの律令制の失敗・・負担が大きかったのではないでしょうか。
事態打開のため、桓武天皇〔781年践祚)は実効性のない制度を廃止し、別個の簡素かつ実効的な制度に置換するという大規模な行政改革をおこなったと言われます。
この改革は、律令制の再構築(リストラクチャリング)を意図したものだったらしいのですが、これにより律令制は大きく変質することとなります。
桓武期には、反対者の粛清をするなどしながら(映画「陰名師」のテーマにもなりましたが、相良親王が怨霊になって出る原因です。)長岡京・平安京への遷都の強行をしたり、対蝦夷戦争(征夷大将軍坂上田村麻呂の出番です)などご一新政策をやって、人心一新を図るのです。
しかし、新たな展望のないままの人心一新では、班田農民の苦境を激化させ、いよいよ班田制の崩壊を早めただけと言われています。
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