01/09/06

律令制崩壊1(豪族したたかさ)

大宝律令制定前の豪族と国家(朝廷)の関係は、現在の資産家が相続税対策のために、資産の一部を出資して公益法人を作り、形式上は個人所有でなくその法人(国家)所有としているのと似ています。
こうして美術館などでは、子孫がその法人の理事長や理事として事実上、古美術品に囲まれて大きな屋敷で生活しているのと似た構図だったのです。
ただし、当時の開墾バブル崩壊で困っていた豪族は、古美術品のような良い荘園は手放さずに、採算の取れない、最下級の耕地を国に供出し・・・・今の言葉でいえば買い上げてもらったのでしょう。
こうして、公地公民制の開始時期には、私営の荘園と公地公民の農地の並存社会が成立していたのです。
この並存社会の存在・及び郡司・・・官僚の供給源を地方豪族に頼らざるを得なかった朝廷権力の弱さが、日本では律令実施と表裏の関係にあるはずの官僚養成制度である科挙制度の導入が出来なかった基本的な理由ではないでしょうか?
こんなごまかしが利かなくなってきたのが、8世紀中葉ころからと一般に言われるのですが、12/17/05「天武・持統朝と律令導入(大宝律令と養老律令)2」のコラムで紹介したように大宝律令の制定が701年で、三世一身法は養老7年=723年ですから、制定後わずかに20年前後しか実施できなかったことになります。
歴史に残るような大改革は、短期間に出来るものでは有りませんから、三世一身法成立のずっと前から、改革しなければどうにもならない状態があったことが明らかです。
要するに大宝律令制定時には、すでに社会実態のほうでは、公地公民制がどうにもならない時代が来ていたのでしょう。
私が考えるには、地方豪族の経済力が復活してきて・・・・自分の経営する荘園の経営改革が軌道に乗って来たのでしょう。
こうなると、土地だけあってもどうにもなりませんから、国に供出してしまった公民・耕作労働者の不足社会、労働者の取り合いになってきます。
(今で言う、景気の波動に伴う失業率の増減と同じです。)
これだけの社会背景が有ってこそ、農民=耕作民の逃散・労働力流動化社会が到来していたのです。
その流れで見ると、耕作民の取り合いが終わった後の院政期になってくると、折角名目上国有になっていた公地そのものの取り戻しが始ったのだと言えるのです。
こうして、院や摂関家の私的な荘園設立競争になって、日本中の公地が朝廷管理から除外されていくのですから、院政期は国がばらばらに解体されていく過程であったとすら言えるでしょう。
これを率先したのが、八条院(美福門院系)や後白河など、当時の最高権力者であったのですから、政治と言うものは、奥が深いと言うか面白いですね。



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