01/05/06
平安末期の院政期に急激に発達する荘園の組織化においても、国税を免れるために院や、摂関家に寄進をする訳ですが、その分国税がなくなるのでその担当の「国が」(国司)の了解が必要でした。
こうして受領階級、特に院の近臣として勢力を振るった中堅貴族が勃興したのです。
(その代表例が、平治の乱で討たれた信西入道でしょうか?)
その仲介をした地方有力者や武士は、その預かり所職として就職して、権力地盤を築いて行って、地方領主に成長していった例を想起してもいいでしょう。
日本ではこのように、一つの土地について、いつも重層的な権利関係が生まれていたので、今の単純な所有権概念で考えると誤ります。
イギリスでは、エンクロージャームーヴメントで、小作人を追い出して労働者階級に再編しましたが、日本では逆に農地解放で地主の方が追い出されてしまったのがその象徴でしょう。
明治維新での地租改正で、税金を納め切れなくて、小作化が進んだ事も紹介しましたが、農民は名目はどうであれ、土地にへばりついて来たのです。
或いは、明治維新後各地で頻発した入会地騒動については、 この複雑な土地利用関係を単純な所有権概念で割り切ってしまった所にあると言われています。
大宝律令時代の口分田も、豪族が国家(朝廷)に名前を貸しただけで、実際には元の豪族の事実上の管理・支配権が残っていたのではないでしょうか。
国司を置いたときに、もとの豪族は郡司として残ったのがそれです。
今に残る苗字の郡司さんの語源は、その名残ですから元は大変偉い人だったのです。
ただ、郡司さんの中で、この次に書くように平安初期に荘園領主として復活できた人は、もう郡司さんとは言いませんから、荘園領主に復活できなかった人だけが、郡司さんとして今に残っているのですから、ホントは負け組みです。
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