01/05/06

大宝律令とその実際1(防人先行人不足解消

年末年始の話で少しお休みしていましたが、12/18/05「大宝律令と平城京遷都1」以来の律令制の話に戻しましょう。
日本でも、初期のころは防人に取られた家庭では、若干の耕作能力不足が生じたかも知れませんが、それでも男1人がとられただけです。
今のような核家族時代ではありませんので、(氏族共同体的色彩が濃厚だったでしょう)一人くらい取られても、外に男が残る場合がほとんどでしょうし、家族ないし一族みんながいなくなったわけではありません。
と言うわけで、白村江へ行ったまま帰らなかった何万と言う北九州男児以外には、耕作者不在の農地は、ほとんどなかったのではないでしょうか?
以上考えてみると、天智天皇は、白村江の会戦での敗北を受け、九州地方の人手不足が深刻になり、この不満を放置できなくなったことから、この解決と日本防衛のために一石二鳥の制度として唐の屯田兵制度を取り入れる事にしたのでしょう。
太平洋戦争で負けた日本は、敵国だったアメリカの制度を戦後取り入れましたが、歴史は繰り返すのです。
ところが、制度が大宝律令として完成するのに40年近くもかかっている間に、(明治の民法や刑法が出来るのに30〜40年かかったことを紹介しましたが、大きな法典と言うのはそのくらいかかるものです)九州での人手不足は解消され、しかも唐、新羅軍の来襲もなかったので、兵士の必要性もなくなってしまったのです。
やっとマイホームが出来たら、子どもが成人して出ていってしまうのと似ています。
あれやこれや考えて行くと、耕作者不在地が多ければ耕地の配給は可能でしょうが、農民が現に耕しているのに、その耕地を取り上げて他人に配給をするなどは、実際上不可能な話です。
九州の男日照りが解消された段階で、公地公民制を実施する裏づけがなくなっていたのです。
同じことは、戦死者のでなかった九州以外の日本列島全域で、いきなり国有化=配給制度が何故可能であったかの問題でもあるでしょう。
それ以前は大和朝廷と言っても諸豪族の連合体の上に君臨していただけで、全国の国民(今の用語ですが便宜上の使用です)を直接支配していたり、全国から直接に大和朝廷が自分の税を取り立てられたわけではなかった筈です。
これがいきなり全国に国司をおいたり、全国人民を直接国家管理に出来たのは、次に紹介するように豪族の倒産状況があったからです。



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