01/22/05

「法治国家3」法律の必要性1

01/18/05「故意・過失責任の原則(刑法22)(意思主義)」以下のコラムで、わが国では、先ず結論があって、処罰目的で裁判が行われているかのように書いてきましたが、その大前提として国民の多くが処罰を肯んじないときには、不起訴処分となります。
元外相田中真紀子さんの秘書給与疑惑での、不起訴処分がその例と言えるでしょう。
こうしてわが国では、実質的な国民全体・憲法の言葉で言えば総意で起訴不起訴が決まり、しかも判決まで国民の総意に基づくとなれば、起訴された結果、認定事実が大幅に変わらない限り、有罪率が99、何%となるのは仕方ないかもしれません。
しかし、わが国での刑事裁判は処罰目的だから、判例や法律が不要と言っているのではありません。
処罰のためと言っても国民の納得が必要ですから、それなりの先例集が集積したことを11/30/04「江戸時代の裁判4(吟味筋1)」のコラムで書きましたが、技術的な必要性は変わらないのです。
また、国民に対して、「こうしたことをしたらこういう処罰がされる(裏返せば、該当しなければ処罰されない)」という指針・すなわち法律を予め与えることは、いつの世でも必要です。
01/26/04 「喧嘩両成敗法と生類憐れみ令1(忠臣蔵2)」以下のコラムで紹介しましたが、悪名高い綱吉の「生類憐れみの令」と言っても、繰り返し何十回も出されていますが、何十回も出されたこと自体が「処罰するには予め命令を発布しておく必要があった」ことを物語っているのです。
罪刑法定が統治の必要から生れたとしても、これを人権活動家が、(または学者も?)「いかに法網をくぐろうとも、予め法定されていない限り無罪だ」と言う主張をしているのが、今の罪刑法定主義の考え方です。
こうして罪刑法定主義の裏原理として、類推適用はできないということになっていますが、わが国の裁判は江戸時代以来処罰目的で来ましたから、「免れて恥じなき徒」を跋扈させないために?実際は簡単に類推適用して有罪にしている事が多いように私は思います。
裁判所も学者と論争する趣味がありませんから、これは類推適用ではなく、拡張解釈しただけだと言い張っている裁判事例がいくらもあります。(勿論私の独断解釈です)
このため何が類推で何が拡張解釈かの区別が、01/17/05「事実の錯誤、法律の錯誤2(刑法21)服部君の場合」のコラム以下で紹介した事実の「錯誤か法律の錯誤」かの区別同様に、判例上合理的な差がなく、不明な感じです。(処罰の必要性が基準であれば、わからないわけです。)



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